昨日へ    2001年10月05日    明日へ

末広墓地からレースイを見る。

10月に入ると、日没が早くて、風が冷たくて、紅葉の気配が漂って...僕は、毎年あの日を、思い出すんです。僕が、高校3年生のとき、夕張の炭鉱で大きな事故があったときのこと。

あの日、僕は部活の練習をしていたんです。どこからか、事故があったという噂が広がり、僕は炭鉱関係に親が勤めている後輩に、電話してきたほうがいいと話したんです。北高の玄関のすぐ側の購買部。そこにあった赤い10円電話の受話器は「ただ今、混雑しているので、後ほどお掛けください」を繰り返すばかり。きっと落盤か何かで怪我人がでたのだろう...と、言ってみれば「いつもの事故」程度の認識を、みんながしていました。けれども一応、その日は、部活をおしまいにして、みんな帰ることにしました。僕は、北高の坂を下りてすぐのところに暮らしていましたから、最後にのんびり帰りました。

家に着いて、テレビを付けて、驚きました。死者が出ている。しかも、かなりの数の行方不明者! 自分が暮らしている町の、すぐそこであった惨事を、テレビで見る不自然さを感じつつ、数日後に予定されている部活競技の南空知大会が、北高で行えるのかどうか...そんなことを心配していました。

けれども、死者の名前が、たくさんたくさんテロップで流れ、僕は同級生の姓を頭に浮かべながら、身動きができなくなり、辛かった。寒かった。

...あの日のことを、いろいろ書こうと思ったのですが、なんだか難しい。日記の1ページにさらさら書けない。

北炭の幹部が「火を消すために、坑道に水を入れる」と言った場面。清栄町の体育館であった炭労の集会を、報道者に混じって2階からみたときの、あの迫力。札幌での炭労のデモ。北炭関連のビルにつっこむところを、ストップされた場面を見て、僕は、とても悔しかった。坑道に水を入れる日のぼた雪。谷間全体を覆うかのようなサイレンの中、坑道に水が入れられるその音が、僕には聞こえるようだった...。

あの日から、もう随分月日が過ぎました。けれども、僕の中では、10月を迎えるたびに、僕のアイデンディティーをより強く形成したと言える、あの日を、思い出さずにはいられないのです。

1981.10.16 北炭夕張新鉱ガス爆発。死者93名。もうすぐ、16日。僕にとって、命日であり、誕生日でもあるような、そんな気持ちです。僕は、坑道に、生存者がいるかもしれない坑道に、平気で水を入れようとする権力者たちの「側」にはいてはならない。おごらず、嘘をつかず、毎日を暮らす人々の「側」にあらねばならない...。ここのところ、今までに増して、そう感じているのです。

写真は、2000.08.16.の末広墓地からレースイを見て、です。

去年の今日