昨日へ    2001年10月09日    明日へ

8/11の名古屋水族館

アフガニスタンへの「テロ」が始まり、新聞の1面には、大きな活字が踊っています。きっと、アフガニスタンの夜は、アッラーの神が救いきれない悲しみに、満ちているのでしょう。眠る場所を奪われた子どもたちが、怒りの種を、きっと自分の中に見つけているでしょう。僕の中にもまた、「正義」したり顔の暴力に、怒りが湧いています。我が子を殺された悲しみは、相手の子どもを殺すことで癒されるのでしょうか?

「テロ撲滅!」と権力者たちは、鼻息を荒くしています。暴力システムを総動員して、個人を包囲しています。「テロ撲滅」とは、ひょっとして個人の表現を全て奪い去ることではないか。僕にはそう思えてなりません。守られているのは、一体何でしょう? 「民主主義を守る」だの、「世界の平和を」...などと言いながら、テロ撲滅のために、私たち個人全てが疑われています。警備は、私たち個人を、監視している! 空港での荷物検査は、私たち個人を全て、怪しいものとしてチェックしている! 気付くと、町中にはありとあらゆる場所に、監視カメラが光っている! 一体、何のため? 誰のため?

「テロリスト」だけを標的にし、市民を巻き添えにしないなどと、権力者たちは言います。けれども、それは無理です。戦闘の現場では、あらゆる者が「敵」になるのです。あらゆる者を、疑うのです。「あの少年は、ゲリラかもしれない」「あの少女の鞄には、爆弾が入っているかもしれない」「あの乳母車には...」と、全ての個人を疑うことになるのです。アメリカは、ベトナムでの敗戦の歴史から、何を学んだのでしょうか?

そして、そんな視線は、アフガニスタンの地だけではなく、この列島にも同様に存在しています。私たち個人は、全て疑われている! 「テロ」を「撲滅」した後とは、どのような世界になっているのでしょうか。私は、人殺しはいけないことと、断言します。テロを支持しません。けれども、「テロ撲滅」が、個人の表現を奪い去るものならば、「テロ」を撲滅してはならないのだと思います。

今日も、あちらこちらで、監視カメラが光っています。監視カメラは、権力者たちの密談にこそあるべきです。念入りなボディチェックは、ブッシュにこそするべきです。

写真は、8/11の一枚です。名古屋水族館で、魚を見つめる子どもたちを撮りました。...世界中の子どもたちが、おもしろいことをおもしろがることができて、疲れたらゆっくり眠って、明日を楽しみにしながら、夢見られるようになりますように...。

去年の今日