昨日へ    2001年12月01日   明日

誰のため?

今朝、バイクカバーが凍っていました。バリバリしました。どうしよう?って思いましたが、やっぱりバイクで学校へ行きました。薬來山が真っ白。そろそろスキーのことを考え始めた僕です。

午後は、別姓を考える会の集まりがあり、仙台に行きました。アメリカでのジェンダーフリーについて、お話を聞き、あれこれ話しました。集まりを終えて、141ビルを出ようとしたら、入り口の案内コーナーの横に大きな花がありました。見ると、一人の子どもが産まれたことを記していました。僕は、福沢諭吉の言葉を思い出しました。
「貴賤上下の差別なく...」
一番町を歩く人が、号外を手にして歩いていました。僕は、ベガルタ仙台J1昇格のときのようには、号外を求めませんでした。

帰り道、四輪車のラジオでは、
「ごたいじゅう」「ごしんちょう」
なんて言っていました。なぜ、今日産まれた子どもに、いきなり敬語を付けるのでしょう。なぜ
「体重」「身長」
と、言わないのでしょう。あなたは、敬語を、誰に対して、どんなときに付けますか?

今日、産まれた子は、きっと「あなたは「あの子」と同じ日に産まれたんだよ」と、言われ続けるでしょう。今日、産まれ切れずに息絶えてしまった子の親は、「ご誕生おめでとう」という提灯を、忘れないかもしれません。そしてラジオのニュースを途中で切るかもしれません。どの子の命も、同じなのに、なぜ「あの子」には、敬語を使い、町行く人が「おめでとうございます」と口にするんでしょう...そう「おめでとう」じゃなくて「おめでとうございます」と。「あの子」は、産まれながらにして、個人としての生き方を決めつけられているにちがいません。だから、人権侵害と言えるかもしれません。けれども、僕は「あの子」への同情より、不平等社会の再確認をしてしまったこと、そんな国で暮らしている事実に、がっかりしているところです。

まさか、祝うことの強制までは、しないでしょうね。

去年の今日