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2001_0505.下北・大間岬 

今日は、河北新報の「からくりこらむ」に僕の文章が載る日でした。先月とは違って、わざわざプロフィールは載りません。でも、今朝すぐに
「見たよ」
と、大人にも子どもにも言われました。ちょっと嬉しくて、結構恥ずかしい...。今月のコラムは、こんな感じです。

「苦いチョコの思い出」

 いやはや、バレンタインデーとは、何とも罪なもんです。

 高校時代の私は、ヘビー級に無口で「学校に行っても誰ともしゃべらない記録」を更新する毎日でした。女友達はおろか、男友達も猛烈に少なかったんです。図書室の新潮文庫をわんこそばのように平らげ、やり場のない社会正義だけ燃やし、日記にあれこれ独り言していた日々でした。唯一、文化祭のときは、演劇脚本演出役として過剰に饒舌になり、後で独り思い切り落ち込んだりしたもんでした。

 私には、常に好きな女の子がいました。憧れの女の子。いつも全身全霊を傾けて、片想いでした。オーラだけ放って、話すこともできなかった私。ちょっとストーカーだったかもしれません。

 そんな私は、バレンタインデーが大嫌いでした。超緊張の一日だったんです。「あっ、ほしそうな顔している」とか「あいつは、一個ももらえなかったんだ」とか「あんたにあげるチョコなんかないよ」とか、実際には言われないのに、そう思われているんじゃないかという想像に縛られ、息苦しかったんです。だから一日中、下を向いて過ごしていました。そして「チョコレート、ちょうだい!」と臆面なくおしゃべりしているクラスメートが羨ましくてなりませんでした。ああ、あんなふうに自由に話せたら、どんなに楽だろう!

 チョコレートがほしいとか、恋人がほしいとかよりも、「チョコ、くれ」とか「愛してるよ〜」とへらへらしゃべられる自由。私は、自分で自分をふさぎながら、そんな自由が眩しくて、仕方なかったんです。

 あれから二十年以上過ぎ、私は随分変わったかもしれません。でも、自由に気持ちを表せなかった頃の記憶は、忘れてはならないなあって思っています。あなたは、自分の気持ちに正直に暮らしていますか。ふさいでしまって、疲れていませんか。

 今日はバレンタインデー。何のことはない、いつでも告白したり、愛を口にすればいいのにね、いやはや。

職場での反応の一つに
「なんで、いやはやなの? どういう意味?」
というものがありました。ふむ。これは、読者の方に、僕のことを覚えてもらうため、毎回共通した「何か」を記したかったためです。何でもよかったんですが、学習発表会で1・2年生がやった「裸の王様」で、大臣が
「いやはや!」
ってやっていたのが、妙に印象的で、採用になったというわけです。どういう意味かって...ん〜、調べてみますね...。

さっそく、いろんな方からメールを頂いていますが、その中に、ご無沙汰しているあるおぢさんから、
「ところであのあとどうかわったのか?」
という、するどい感想を頂きました(ごめんなさい、返信の前に、これをアップしちゃいますね)。ふむふむ、ですね! 一言で
「こうです!」
と言い切れないところが、辛いです。追々、書いていきたいと思います。まんず、ほどほどに期待していてください。そういえば、随分前に書いた文章のことを思い出しました。えぇ〜い!、勢いに乗って、これもまた載せちゃいましょう!(ただし、一応、名前んとこは、伏せておきますね。)

いまさらながらの自己紹介

 いまさらながらに自己紹介をしようと思ったのは、もったいなかったからです。今回の出会い(※喜納昌吉&チャンプルーズ王城寺原コンサート実行委員会)を、今回限りにしちゃなんねぇ、そう思ったからです。まだよく分からない「次回」でも、あちらこちらの「次回」でも、「ああ、あの○○ね」って具合に、会えるといいな。そんなわけで、自己紹介です。(プライバシーの暴露です。)

 私は、○○○(□□□□□□)です。小学校の教員をして、身銭を稼いでいますが、本当は、もっと違うことをしたいと思っています。

あからさまな差別がありました:夕張

 生まれは、北海道の夕張市です。炭鉱生まれの炭鉱育ち。閉山が相次ぐ中で、思春期を過ごしました。炭鉱城下町の夕張では、「社員」「鉱員」そして「下請け」の差別がありました。住む町も住宅の佇まいも、違いました。あまりお風呂に入れない友達、顔中大火傷の行商の花屋さん、いつも独り言をいいながらゴミを集めていたお婆さん、野犬狩りのおじさん、大きなこぶのある年齢不詳の男性・・・あからさまな差別がたくさんありました。けれども、いろんな人がいることが、自然でした。ある意味、おおらかな労働者の町でした。

 高校2年の10月16日、最も大きいそして唯一とも言える炭鉱で、ガス爆発がありました。放課後、部活動をしているときでした。事故の噂が届き、どうやら2・3人亡くなったらしいということでした。心配だから電話をかけて来ると、何人かが公衆電話に走りました。けれども、受話器をあげると、混線を伝えるアナウンスが響くだけ。結局その日の部活動は、すぐに解散ということにしました。ゆっくり家に帰った私は、テレビを見て驚きました。2・3人ではないのです。93人。地底4000kmには、まだ人がいるらしいということでした。その夜夕張の狭い谷間には、救急車の音が絶えませんでした。

 ガス爆発があると、坑道火災が起きます。石炭の中の穴ですから、すぐに燃えます。会社は、それを鎮火させるために、坑道への注水を提案しました。社長は、この炭鉱がだめになるともう会社自体が危ないのだと頭を下げていました。大声で叫ぶ家族の表情がテレビに大写しになっていました。地底には、まだ人がいます。生きているかもしれません。町中が揺れました。

 1週間の後、注水が決定されました。土曜日でした。帰りのホームルームで、午後1時に注水されるから、そのときは黙祷してほしいと担任が言いました。教室は、しんとしていました。部室に寄った私は、他の人より遅く、一人で高校の坂を降りていました。大きな雪が、舞っていました。不意に、谷の向こうからサイレンが鳴り始まりました。すると、犬の遠吠えのように、いろいろなサイレンが鳴り始め、谷中がサイレンの唸るような音と、風に吹かれる雪でいっぱいになりました。うかつにも気持ちの準備をしていなかった私は、どきどきしました。誰もいない坂道で、立ち止まり、目をつぶりました。水の音が、聞こえるようでした。

 今、夕張には、私の通った幼稚園も、小学校も、中学校も、そして高校も、ありません。たくさんの人が、仕事を失い、出ていきました。みんな、どうしているんだろうなと思います。坂ばかりで平らなところがなく、川は洗炭のため真っ黒に汚れ、そして差別に満ちた町でした。でも、人の暮らしが見えた、愛しい町でした。(愛しい町です。)こんな町で、○○少年は、本多勝一や小田実などを読み、外の世界に出ていきたいと考えていました。

 そして、夕張からなるべく遠くと思いつつ、雪がないと寂しいからと宮城県に来て、いつのまにか15年になろうとしています。○○少年も、おじさんです。

 いろんな人に出会わなくてはいけないな:仙台

 仙台に来たのは、大学からでした。初めは「障害児」教育に、意欲を燃やしていました。けれども、「差別」「隔離」そんな印象から、みんな一緒に暮らすほうがいいなと考え始めるようになりました。「教育」も、ちょっと疎ましく感じました。

 そんな中、大学の講師の先生が、指紋押捺を拒否しました。学内で、誰も応援しないので、友達と応援することにしました。在日朝鮮人の人の話を聞いて歴史を学びました。炭鉱での強制連行のことは小学校のときに習っていたのですが、やっぱり「生」は違うんですよね。やっぱり、いろんな人に出会わなくてはいけないな、と感じました。外国人登録の問題、戸籍という管理制度のことを知りました。嫌がらせも受けました。警察が、守ってくれないことも、経験しました。そんな中、「障害者」の仲間と出会い、赤堀さんの裁判に行ったり、介護を始めたりして、だんだん大学の外で学ぶようになりました。下北を歩いたり、水俣におじゃましたり。いつのまにか「権力」というものを、とても意識するようになりました。そして「政治」よりも「暮らし」だなと考え始めるようになりました。

 世の中にはいろんな人がいるんだよ、ほら:別姓

 どういうわけか、教員になることができました。矛盾の始まりです。いかに自分が「権力」にならないか。最初は、大変でした。(・・・今も大変ですが。)

 別姓にしてからでしょうか、波風の中で自分を主張し始めることができるようになったのは。8年前になります。二人暮らしが始まりました。PTAの懇談会で話しました。
「私事ですが、実は、結婚しまして」
「あら、先生、おめでとうございます(拍手)」
「夫婦別姓なので、留守番電話なんかで、びっくりするかもしれませんが、よ ろしく」
「・・・・」
そんな会話があったあたりからでしょうか。私は、「世の中にはいろんな人がいるんだよ」の見本(さきがけ)になろうと意識するようになりました。ほら、この髪もその一つです。

 別姓を考える会が、スタートしました。なんだかんだ言っても、「異端」と見られるのは、なかなか大変です。気も使います。相談しようにも、どこにも行き場がなくて、大変でした。そんなところでできた別姓を考える会は、ひとりぼっちで不安に思っていた人の格好の止まり木。話を聞くということだけで、こんなに人は元気になるんだということに驚いたりしました。私は、外国人登録や戸籍の問題から、婚姻届なんてどうして出さねばならないのだ!と、別姓にしたわけですが、別姓にする動機は人それぞれ。制度や法律以前に、人間関係の問題なのだなと、勉強させられました。いろいろな人の話を聞くにつけ、いろんな生き方をどのように許容し、「正義」を押しつけずに、認め合えるかが、大切なのだなと感じるようになりました。「いろんな生き方あっていい」これが別姓を考える会の合い言葉です。別姓だけなら、単なる名前の話。でも、その背景や歴史、派生する問題は、広く深いようです。多くの人に、「そういう人もいるんだね」程度には、理解してほしいと思っています。

 風通しのいい「村」がいいな:これからのこと

 夕張の町が、今でも好きです。鍵なんか掛けないで、近所が一緒って雰囲気がいいんです。何度も訪れた利尻やオホーツク、下北や水俣、福島でも、みんなごちゃごちゃと一緒な風景が、素敵だなぁと感じました。おじいちゃんがいて、おばあちゃんがいて、あかちゃんがいて、いろんな人がいて、犬が走って、猫がじゃれて、おいしいおしんこを縁側でごっそうになるって感じ。貸し借りあり。「村」がいいんです。風通しいいのが、いいんです。

 けれども、別姓にしようとする女性の話を聞きながら、旧来の「家」制度の閉鎖性・封建制は、問題だと思うのです。法事のたびに「嫁」としての働きを当然のように強要されるのは、精神的にも辛いです。彼と結婚したんだよ、彼の家と結婚したんじゃないんだよという感覚には、大いに頷けます。自分たちが別姓を選択したいのに、周り(とくに親戚という中距離の人たち)がとやかくと干渉する今は、やっぱり変えていかなければなぁと思うのです。

 農業は、村みんなで作っていくものなのだから、勝手な行動が許されなかったのかもしれません。昔からの慣習が、村の平和を築いてきたのかもしれません。う〜む。慣習に縛られないで、それでいて、ゆっくり風がそよぐ、そんな村は、できないんでしょうか。一人一人の気持ち(自己決定)を大切にすると、農業はできないのでしょうか。「嫁」だの「長男」だの「本家」だの、そんな遺物なしの、個人が個人でふれ合える、そんな「村」って、できないんでしょうか。

 さて、私は、あっちこっちで、これからも表現し続けていきます。

夫婦別姓法制化への理解を・婚外子差別をしないで!
子どもの権利条約を生かしていこう・無理に学校に行かなくても大丈夫よ
男らしさ女らしさって、疲れるよ・国境なんて、なければいいのに
よかったら、応援してくださいね。(1997.11.30.)

は〜、結構長かったですね。ご静聴ありがとうございます。あちらこちらに公表している文章なのですが、あらためて読むと、5年の年月を少し感じる筆者でした。そうそう、今日の写真は、2001年5月5日、僕の大好きな下北の大間岬での一枚です。(先のおぢさん好き系でしょうか...)なお、次回の「からくりこらむ」掲載は、3/14の予定です。