今日は、う〜んとゆっくり起きました。びっくりしました。普段は、4・5時代には起きる僕なのに、8時です。いやはや、こういう日もあるもんなんだなあ。ご飯を食べて、コーヒー飲んで、ギターを弾いて、昼からひっさしぶりに温泉に行こうかと思ったら、何と午後に予定が入っていたことに気づき、あわてて昼の列車に乗り、仙台に向かいました。保安処分反対の集会は、今日だったんです。
精神科のお医者さん・岡田靖雄さんの講演がありました。事態がうんとよく飲み込めました。後半、シンポジウムがありました。あともう2時間ほしかった。参加者も多く、もっといろいろ聴きたかった。そして僕も、話したかった。
刑法学者・吉川経夫さんからの著作(2001.吉川経夫「著作集」3巻 法律文化社)からの引用ですが、保安処分とは「国家が、犯罪予防のため用いる強制処分であって、刑罰以外のものを、保安処分という」のだそうです。保安処分って、精神障害者を拘束するものと思っていた僕は、もっともっと広い意味があることを知りました。そして、「国家」の暴力を、思いました。有事法制の論議の中で聞かれる「国民を守る」という、よく分からない言い方のずるさ。同じ臭いを、この保安処分でも、かぎました。
精神障害者とは、誰でしょう? 病は、病にすぎないのに、人格にしてしまっていないでしょうか? そして、差別的な状況に、社会が追い込み、より病を辛くしているのではないでしょうか。誰しも(僕も)心を痛めることがあります。慢性的な病状を起こすことがなかったとしても、誰しも精神病の症状を、どこかで経験していると思います。たとえば、あらゆる犯罪行為は、その人としては不本意な状況(それゆえに起こされる精神の不安定)によるものなのではないでしょうか。人を大切にしない「民主主義」は、もう「民」が「主」ではないのです。じゃあ、誰が、主?
精神障害者は危ないというイメージは、それ自体が最も危ないです。精神科に通っている患者さんと、通っていない人との、犯罪率は、変わらないのです。人を危ないといって拘禁するよりも、もっと危ないものが、是正されなければならないものが、僕たちの回りには、いっぱいいっぱいあるのではないでしょうか。果たして、保安処分は、何を守ろうとしているのでしょうか。
僕は、保安処分に反対です。「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察に関する法律」の成立に、絶対反対です。3月に上程され、5月には衆議院本会議で趣旨説明が行われ、法務委員会に付託されていますが、もっとたくさんの人に関心を持ってほしいと思っています。ああ、もっともっといろいろ書けるような気がする...。
写真は、集会後に、介護に行き、その帰り道、仙台駅で撮ったものです。東北本線の電車に乗っていたら、隣りホームに止まっていた札幌行き寝台特急「カシオペア」が発車したんです。青年は携帯のボタンを押しまくり、電車の運転手は、ぼんやりとカシオペアを眺めていました。何となく、向こう側が非日常でした。