昨日へ    2002年08月07日   明日へ

 広島原爆資料館・佐々木禎子さんの鶴を見る子

今日は、広島で目を覚ましました。ホテルのレストランで朝食。子どもがいっぱいで、驚きました。みんな、バイキングなので張り切っていました。僕は、ここのところの不規則な生活ゆえ、ちょいと食欲がありません。

9時から、碑巡りツアーに参加しました。平和公園にあるいろいろな碑を巡り、ガイドの方に、教えていただくツアーです。た〜くさんのことを学びましたよ。やっぱり、ちゃんと現地で、現地の方に聴くことは、大切だと感じました。

原爆の子の像のところには、たくさんの折り鶴がありました。碑巡りのときに、金属製の鶴の話題になりました。鶴を燃やす人がいるので、金属製の鶴を作った人がいたとのこと。鶴を燃やす人のことばを、聴きたいと思いました。なぜ、そんなことをしたのだ!と、抗議をする前に、きちんと聴きたいと思いました。

碑巡りツアーで教えていただいた中で、とても印象的だったのは、13.4歳の少年少女が、たくさん死んでいったということです。それよりも小さい子たちは、疎開に行き、それよりも大きい青年は、広島を離れ、戦いの中にありました。13.4歳の少年少女は、工場で働いたり、当日は避難場所を作る作業のために集まっていたとのことでした。僕の胸が、とってもずんとしたのは、ガイドの方が
「その子たちは、ちょうど日中戦争が始まる年に生まれたんですよね」
と言ったときです。15年戦争。この少年少女は、戦争の中で生まれ、戦争の時代しか知らず、戦争によって殺されていったのです。生涯が、人生が、戦争の中だったのです。とても、悲しかった。悔しかった。僕は、学校で子どもたちと過ごし、仕事をしています。「子どもたちを二度と戦場に送らない」...いつもの決まり文句のように口にするのではなく、あらためて、かみしめて、気持ちを正さねばと、感じた碑巡りでした。

碑巡りの後、資料館に入りました。展示されているものを見つつ、それを見る人の姿も見ていました。やっぱり子どもが多いんです。これは、希望と言えるかもしれません。もしも、「過去」を懐古する高齢者ばかりであれば、子どもの姿が全くなければ、将来が不安です。東館から本館に行く廊下で、小さな男の子が
「いよいよ、ほんものだぁ!」
と、気合いを入れていたのが、印象的です。一度来たことがあったのかな? 原爆投下直後のジオラマの前で、子どもたちは、炎の中の人を、見入っていました。上の写真は、佐々木禎子さんの鶴に見入る女の子。歴史は、過去として振り返るものではなく、現在に流れているものとして、未来に活かされていくものとして、あるのだ。そう感じました。やっぱりヒロシマに来て、よかった。

昼過ぎに、バスで広島空港に向かいました。パスからちらりと見える原爆ドームは、デパートの向こうの日常の風景にありました。僕は、鶴を焼く人のことを思いながら、原爆ドームを破壊しようとする人は、いるだろうか。そんな動きがあったとき、僕は、どうするだろう。そんなことを考えました。一方、皇居が皇居でなくなり、公園として解放される日を想像しました。また、アイヌモシリ・沙流川に建造されたコンクリートのダムを思い出しました。暴力へ抵抗する魂が、ちゃんと僕の中にあることを再確認しながら、僕はヒロシマを後にしました。