昨日へ    2002年08月15日   明日へ

8/05尾道の猫

今朝は、首都圏から来ている甥っ子たちが帰る朝です。朝ご飯を食べる前に、田んぼでザリガニ獲りをしました。いっぱい獲れてよかったよかった。メダカも、ウシガエルの子どもも獲れました。ウシガエルの子どもには、もう手脚がありました。大人のトノサマガエルと、同じくらいの大きさでした。

首都圏の子どもとしては、なかなか体験学習の多かった4日間だったと思います。釣りが十分できなかったことと、テントを張ったり、焚き火をしたりできなかったのが、僕としては残念でしたが、まあそれは次回ですね。自動車のドアを閉め、みんなずっと手を振ってくれました。車が見えなくなり、家はうんとしんとしてしまっています。もしも、僕の子どもがいたら、僕は今回と同じようにいろいろできたかな? 子どもがいたら別かな? そんなことを思いながら、静かに片付けをしました。

やっぱり疲れたんですね。昼寝をしてしまい、8/15の集会などには参加しませんでした。先日買ったDVD映画「田園に死す」(寺山修司監督)を見ました。明日、下北に行く!などと、思いついたのですが、無理はしないことにしました。しんとした夜が来ました。

ところで、8/15。敗戦記念日・そして解放の日です。

僕は、戦争を二度としてはいけないと考えます。だから「国のために死ね」という命令が、二度とあってはならないんです。「国のために死ね」という命令に従って、死んでいった(殺されていった)たくさんの人。その後に続く人を、決して出してはならないんです。犯した罪を、反省し、これからに活かさなければならない。そう思う8/15なんです。だから、権力者たちが無反省に、靖国神社の公式参拝をすることを、僕は批判します。また、新たに「国のために死ね」と命令しそうな、そんな危機感が漂うんです。

靖国神社ではない、新たな国立墓園を...という話があります。これにも、僕は反対します。そんなの同じです。「国のために死ぬ」ことが、「功労」になるんです。これは、労働災害とは違います。戦争は、人間が、国家が作るもの。不慮の事故ではないんです。戦争など起こさぬようにすべきなのです。何より、それが日本国憲法に基づくこと。新たな国立墓園は、まるでこれから生じる戦争犠牲者を予定しているようです。「海ゆかば」なんて、もうこりごりです。
新たな国立墓園をという話が出たとき、僕は女帝のことを思い出しました。天皇のところに、息子ができなかったら、困る。ならば、女帝ありということにしようという、そういう話です。天皇を誰にするかなどという論議で「男女平等」などということばを使うのには、参りました。天皇という存在・制度が、何よりも差別的なのに、「平等」とは笑ってしまいます。僕は、思いました。ああ、何が何でもとにかく天皇制を残したいということなのだな、と。
そして、新たな国立墓園の話を聞きながら、思うのです。ああ、何が何でも、戦争で人が死んでいい環境を作りたいんだな、と。

今日は、自由の始まりの日なのです。たくさんの犠牲を出したことを反省する日です。
「そんなことを誰かに聞かれたら、捕まるよ」
とか、びくびくしなくていい日の始まりなんです。たくさんの失敗の歴史の上に、僕たちは暮らしています。その歴史に知らんぷりをしないという、そんな日なのです。
愛知県で、失敗の歴史を消し去ろうとする教科書が採択されたというニュースがありました。本来「恥」を重んじるはずだった人たちが何て恥ずかしげもなく、「心」を大事にするはずの人たちが何と冷たい人間関係しか構築できない、そんな「魂」のない一歩を踏み出すことを、僕は「日本人」として、とても辛く感じます。

写真は、8/05の尾道の猫です。誰もがゆっくりと眠れる、そんな星でありたいものです。