昨日へ     2002年11月01日   明日へ

2年生といっしょ

今日は、県庁で「第6回 新しい教員の人事管理の在り方に関する調査研究会議」のある日です。いわゆる「指導力不足教員」の管理と「優秀教員」の表彰について話し合っている会議。傍聴ができると聞き、朝早い列車で仙台に向かいました。そのときの感想文は、次の通りです。

「絶対安全教師」を目指すのかい?

十一月一日、第6回新しい教員の人事管理の在り方に関する調査研究会議があった。傍聴をした。委員会の委員(十名)が、学校教育現場に関わる機関の代表から意見聴取するのが、今回の内容だった。意見を述べるのは、宮城県教職員組合代表・宮城県高等学校教職員組合代表・宮城県小学校長会代表・宮城県中学校長会代表・宮城県高等学校長協会代表・市町村等教育委員会代表の六名。なるほど、傍聴はしてみるものだと思った。ここでは、私が感じたことを、書いてみたいと思う。

イメージの世界

「子どものため」とは、なかなか難しい考え方だ。いつもそう言っているのは、大人なのだ。そしてどんな立場の人も「子どものため」ということばを口にする。あたかもそれは絶対で、逆らう余地はないかのようだ。「教育熱心」というと、基本的には「善」ととられるのと、同じだ。どんな「教育」に「熱心」なのかは問わずに、とにかく「いいこと」のように受け取ってしまう。

ある委員が、「問題教師」によって子どもたちが実際に傷つけられている!と、繰り返していた。なるほど、教員に傷つけられる子どもは、きっといる。それは、全て問題だ。でも「問題のない教師」は、いるのだろうか。「絶対安全教師」は、存在するのだろうか。そして、私は問題教師だろうか? 私は、叱ることもある。褒めることもある。失敗することも、うまくいくこともある。試行錯誤の毎日だ。自信だって実のところ、ない。落ち込むことの多い毎日だ。ひょっとすると、私は「問題教師」かもしれない。

そう思うとやはり考えてしまう。「問題教師」でない教員とは、どんな人だろう。「絶対安全教師」は、いるのだろうか。「スーパーマン」? もしくは「可もなく不可もない教師」? それとも誰かにとって「都合のいい教師」? 私はそんな「安全教師」を目指さなければならないのだろうか。

被害者の代弁をするという姿勢の、ある委員の話を聞きながら、質問する機会があれば「安全教師に会わせてください」と、お願いしたかった。

商品じゃない

企業と学校の大きな違いは、生産をするかしないかだと、私は思っている。企業は、生産をしなければならない。サービスしなければならない。でも、学校は育む場であって、収益を求めるものではない。もしも、学校を企業のように考えている人だあるとするなら、きっとその人は、子どもを商品としてとらえているからにちがいない。子どもを操作し管理し出荷する? 収益を多くあげる子どもが、いい子ども? 冗談のようだが、実のところ、そう考えている人は、少なくないように思う。調査研究会議の傍聴をして、あらためてそう感じた。

子どもたちのすこやかな成長とは、いったいどういうものだろう。スムーズな成長? 無駄のない成長? 合理的な成長? 金になる成長? それが、子どもの幸せ?

みんなで学校を運営している 

「褒めてはいけないですか?」という委員の発言が、心に残る。褒めることは、悪いことではないかのようだ。ふむふむ。...危ない危ない。立派な人の登場は、立派でない人を生み出す。どんな人が、立派なの?

企業ならよく分かる。収益をあげた人だ。収益をみんながあげるように、企業は褒めたり、叱咤したりするのだろう。実際、収益は目に見える。分かりやすい。

けれども、学校は、違う。一人では仕事ができない場だ。職員が、個人プレーに走っては、学校は動かない。助け合わずに、学校は機能しない。だから、「優秀な教員の表彰制度」などあってはならない。

もしも、隣の教室の教員が「優秀な教員」として表彰されたら、どんなふうに状況が変わるだろう。みんな勇気つけられたり、やる気を起こしたり、祝福したりするのだろうか。保護者は、どうだろう。担任発表のとき、家庭訪問のとき、どんな対応をするだろう。そして、子どもたちは? 「優秀な教員の表彰制度」は、学校に混乱をもたらすだけだと、私はあらためて感じた。

傍聴をしていて、ある校長会の代表が、きっぱりと「表彰制度は、教育には馴染まない」と言い切っていた。他の意見陳述者も言っていた。気持ちよかった。頷いた。そんな中、ある教職員組合の代表が「表彰はありうることだと思う。金で何とかするというのは、気持ちのいいことではないが」と発言していたように聞こえたが、聞き違いかもしれない。そう信じたい。

「愛のムチ」の傲慢さ 

「優秀な教員」探しと「指導力不足教員」探しが、一緒に行われている。アメとムチだ。アメにしてもムチにしても、教員は、受けるだけだ。操作され、管理され、選別される。みんなで力を出し合う学校現場を、アメやムチで、ばらばらにしていく。私は、「新しい教員の人事管理」とは、学校をばらばらにする人事管理なのだと、傍聴をして、確信した。やっぱり、だめだ。

「第三者による公正な」ということばを聞いた。「子どものための」というフレーズもよく耳にした。あたかも「善」のようだ。でも、違う。それは「平和のための戦争」と同じだ。「愛のムチ」と変わらない。とても、傲慢な、一方的な、ある方向のみしか許さない、暴力的な仕打ちだ。

私は、「教員評価制度」は、誰がどのようにしようと、それが「公正」だったり「子どもと教育に資するためのもの」であろうとも、成立させてはならないと考える。教員同士が、本音で話し合える、失敗を打ち明けられる、そんな環境がなくなってしまうから。教員が、孤立し、疑心暗鬼に子どもと接することを、新しい教員の人事管理の在り方に関する調査研究会議の委員は、望んでいるのだろうか。

例外なき握手

戸田さんは「指導力不足教員」と認識されていない。「組織における円満な人間関係と協力関係の大切さの自覚不足」のために長期特別研修を受けるのが相当とされている(県教育庁担当者による研修延長理由・二〇〇二年五月八日)。だから、「指導力不足教員」というテーマの中では、戸田さんは論じられていないのかもしれない。

しかしながら、戸田さんの裁判と「指導力不足教員」問題とは無関係ではない。教員を本人の希望とは関係なく、学校現場から引きはがすレールを作ってはならない。だから、戸田先生を学校現場に戻す会り会員の私としては、新しい教員の人事管理の在り方に関する調査研究会議には、関心をはらいたい。戸田さんの裁判の勝利、そしてその勝利をばねに、学校現場をなんぼかでも本音で語り合える場にしていくため、視野を広げつつ、仲間を増やしつつ、活動していきたい。呼びかけたい。誰にも相談できず、ひょっとしたら職場でいじめられ、排除される不安を抱いている教員がいたら、私は、手をつなごうと思う。その人は「指導力」が不足していたり、「問題」を抱えているかもしれない。傷のなめ合いではない。孤立と不安を、学校現場からぬぐうのが、大きな課題だと感じるのだ。限定された「誰かのため」のキョウイクカイカクは、きっと教育改革にはならないだろう。

次回の新しい教員の人事管理の在り方に関する調査研究会議は、十一月二五日(月)午前九時三十分から正午まで。場所は、県庁十一階の第二会議室。内容は、まとめ案(素案)の検討。傍聴者は、十名ということだが、是非出かけてみてほしい。たくさんのことを得ることができると思う。

追伸

戸田さんの裁判で、被告側の代理人をしている弁護士が、新しい教員の人事管理の在り方に関する調査研究会議の委員だったことが、私にはとても驚きだった。会議後、すぐに弁護士に声をかけてみた。私は、貴弁護士が委員で驚いたことを伝え、裁判の前から委員だったか、裁判が始まってから委員になったかを尋ねた。すると「初めから委員でした」との回答だった。なるほど、それゆえに弁護士として選任されたのだろうか。少し納得できないのだが、本人から聞いたことなので、そういうものなのかと、思った。問題は、ないのだろうか。

※第6回新しい教員の人事管理の在り方に関する調査研究会議の傍聴をしながら、メモを取りました。関心のある方は、お問い合わせください。

帰り道、仙台駅に隣接している献血センターで献血をしました。400cc成分献血。例によって、血管は見つけにくく、針は痛かったです。まあ、慣れっこですが。看護士さんが「いつもこんなに早いんですか?」というくらい、僕自身驚くほど早く、400ccの血を出しました。そのせいでしょうか。献血センターを出たときは、大丈夫と思っていたのに、久々にひどい貧血。ふらふらでした。よれよれでした。

写真は、昨日撮った一枚。2年生と6年生の一緒写真です。