人が、カプセルの中に入っている。そんなイメージを抱くことが、ここのところ、よくある。
昔、戦いは、すさまじいものだった。重いよろいを身に付けて、鋼鉄の刀を振りかざし、各々名乗り合って、殺し合った。人と人とのぶつかり合いだった。飛び道具が登場してから、少しずつ変わった。名乗らない、ぶつかり合わない。殺すという一点に集中した合理的な「進歩」だった。そして、21世紀を待たずに、人は相手の顔を見ることなく、殺害の後ろめたさ・罪の意識を感じることなく、先進機器によって、破壊することを可能にした。アメリカ軍のピンポイント攻撃の様子を、夕方のテレビのニュースが、お茶の間に提供する。人が殺される様子を見ながら、人はご飯を食べている。僕は、とても悲しい。
コミュニケーションという課題なのだと思う。人は人と意思の疎通をはかりながら過ごしている。過ごしてきた。かつて、わざわざ「コミュニケーション」などという言葉は、いらなかった。なぜなら、日常生活・暮らしそのものが、人と人との関わりなしに成り立たないから。物を買うときは「ごめんくださ〜い」と言っていたものだったのに、今は自動ドアが開き「いらっしゃいませ、こんにちは」という無味乾燥した音声を聞き、バーコードを読み取った後で、お金を無言で渡せばいい。便利...なのかもしれない。信号というものも、いったいいつから登場したのだろう。信号があれば、すれ違う車の運転手の顔など見なくてよい。もしも、信号がなければ、譲り合うこともあろうに。そうそう、僕が少年の頃、シルバーシートが登場したとき、なぜかすっきりしない気持ちだった。人が、カプセルに入っている。人は、そのうち相手の顔を見なくても、データの交換で、暮らしていくのではないだろうか。挨拶も、何らかの信号を発することで、まるで車のウインカーのように、機械的なアクションとして、つまらなくなっていくのではないだろうか。携帯電話を、指で忙しく押している人たちに囲まれて、僕は息が苦しい。
わざわざ話すということ。わざわざ尋ねるということ。わざわざ意味もないことをしゃべるということ。わざわざ喧嘩をふっかけるということ。わざわざ挨拶するということ...。
あれこれと、新たな政策などで、今の課題を「解決」するよりも、無駄のある・時間のかかる生活を、取り戻したほうがなんぼかいいものかと、僕は考えることがある。