昨日へ     2003年09月12日   明日へ

「(田中審議官宅に)爆弾が仕掛けられたが、当たり前の話だと思う。いるかいないか分からないミスターXとわたしは交渉したなんて、向こう(朝鮮民主主義人民共和国)の言いなりになっている」石原知事の発言にため息をつきます。雰囲気としての政治屋に振り回されるのはたくさんです。

僕は、基本的に権力者を信用しないので、国家をひとくくりにして考えることはしないんです。僕は、たまたまこの列島で産まれ、親が日本国籍を持つ人だったので、「日本人」と呼ばれますが、それをもって、この国家ましてや政府を、背負うつもりはありません。僕は、まず僕としてあるんです。僕の自己紹介として、「男」だったり、「ギター好き」だったり、「好きな食べ物は、麺」だったりするのと、並列に「日本列島のある町で生まれ...」となります。だから、同様に「アメリカは」とか「韓国は」というひとくくりは、あまりしない。あえて言うなら「アメリカ政府は」とか「韓国政府は」ってな感じです。ここまでが、「国」を論じている人々への僕の基本的な姿勢です。だから、「アメリカ」政府への怒りを、「アメリカ」で暮らす人への怒りに、転嫁してはいけないんです。そのへんが、ときどき危うい。

さて、石原発言を聞きながら、問題となるのは何かというと...一つには、暴力容認。次に、国家蔑視。

爆弾が仕掛けられてあたりまえな人、あたりまえではない人。それは、殺されてもいい人と、殺されてはいけない人を、選別することです。「君は、殺されても仕方ないね」と、彼は言うのです。自分はどうなの?と、聞いてみたら、きっと彼は「殺されていい人」などとは言うはずがありません。上のような国家認識をしている僕はといえば「殺されていい人だよ、あんたは」と言われかねないですね。僕は、石原知事が殺されるべきなどとは、考えません。「死」は、重いです。「死」は、人間が操作するものではないんです。

もしも朝鮮学校に爆弾が仕掛けられたら、石原知事は何て言うのでしょう。想像しやすく、腹がぐるぐると煮えます。都民の幸せとは、そこに暮らす人々みんなの幸せなのに。

以前、戸籍研究家の佐藤文明さんのお話を聴きながら、ああそうだと、納得したことがありました。姓に関わることなのですが、三代前で姓はもう八つになるということです。僕が、山田という姓だとします。親のどちらかが、山田で、どちらかは元々別の姓だったわけです。それを、佐藤にしましょう。山田を名乗る親の親は、片方は、山田ではなく、志田だったりします。また、佐藤を名乗っていた親の親は、片方は、富田だったりします。そんな調子で、ほんの少し遡るだけで、「姓」だらけになってしまうんです。

何の話かと言えば、万世一系の「山田家」みたいなイメージを、僕たちはどこかで持っているのですが...たとえば歴史の教科書で、自分の同じ姓の大名を見つけると「親戚?」と親しんだり...、それって結構アバウトだということです。「我が家は代々...」ということを否定しませんが、僕にはたくさんの「ご先祖さま」がいて、それはそれはいろんな人がいただろうなぁということです。いろんな身分の人がいたでしょう。いろんなところで暮らす人がいたでしょう。ひょっとしたら、この島国で暮らしていない人もいたかもしれません。「日本人」なんて、かなり危ういイメージです。

石原知事に限りませんが、ここのところの朝鮮民主主義人民共和国へのいろんな発言を聞いていると、まるでイスラエルのシャロン首相が、パレスチナの人々を皆殺しにしかねない口調で暴力を振るっているのと、おんなじという感じ。危険です。彼らの「正義」は、誰をも「悪」にする。

写真は、8/19福島・棚倉のあたりで見かけた牛ファミリーです。

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