秋刀魚を食べていて、ふと思ったんです。僕は、秋刀魚を商品としてしか見ていないんだなってこと。
僕が食べようとしている秋刀魚には、名前があるかもしれない。この秋刀魚は、僕に食べられるために大きくなったわけじゃない。この秋刀魚は、たまたま網にかかってしまった。もしかして、あのとき網にかからないで済んだなら、今頃まだ、太平洋を泳いでいたに違いない。この秋刀魚は、泳ぎ続けて、いつかは死ぬ。秋刀魚は、人間のものではないから、いつか秋刀魚の世界で、静かにこと切れて、海の中に紛れていく。猫や雀が、人目に触れないように、自らどこかで死を迎えるように、秋刀魚も、1匹、群れを離れるのだろうか。だんだんに、海溝に沈んで行って、海底に積もっていくのだろうか。
中学生だった僕は、高校に行きたがらず、父さん母さんを困らせ、呆れさせました。あれは、きっと、何か新しいことをしたいという欲求の現れでありつつ、みんなと同じにしたくないというあまのじゃくと、落ちるのが怖いという臆病風のなせる技だったと、今省みます。あの頃の僕は、劇団に入る!という主張と、利尻に行って漁師になる!という思いつきを、とりあえず口にしていましたっけ。ああ、あのとき、海の人を選択したなら、僕はどんな日々を送ったことでしょう。
写真は、8月の福島の水族館での一枚です。大きな水槽に、たくさんのイワシ達が、行く場あてなく、けれども一所懸命に泳いでいました。