僕は、今、いろんな市民運動に関わっています。夫婦別姓法制化だったり、教育裁判支援だったり、「障害」があっても普通学校に行きたい子・親への支援だったり...。いろんなところに出向き、いろんな人と会い、いろんなことを学び、ときには苦労する。これはもう、僕の普通の過ごし方になってしまっていて、全部やめてしまうイメージはできません。
さて、こんな僕が、初めて関わった運動のこと、書いてみますね。それは、大学2年生のときのことでした。指紋押捺拒否闘争でした。
1985年、全国で在日朝鮮韓国人の初めとする外国人登録法で管理される市民が、外国人登録法で定められている指紋押捺を拒否する運動を始めました。それは、日本政府の管理・排外主義に抗するものでしたし、日本が戦争責任を認めないことへの闘いでもありました。同じように、日本列島で生まれたのに、そして日本語しか話せないのに、なぜ日本国籍を有していないというだけで、登録証の常時携帯を強要され、更新時には指紋を押すという行為を強いられなければならないのか。拒否する人は、逮捕や国外退去という生活全部を賭けて闘う人がたくさんいました。在日一世の先輩は、こんな屈辱的な制度を、孫たちに残してはならない!と、厳しい顔をしていました。在日三世の少女は、自分が自分であるために、嘘を付くまい・卑屈になるまいと、大勢の人の前で、自分のことばで訴えました。僕は、気持ちを動かされました。
この運動に関わることになったのは、直接的には僕が在学していた宮城教育大学のフランス語の先生、エティエンヌ・ド・グドネール先生が、指紋押捺を拒否したことに始まります。宮城教育大学には、学生自治会や教職員組合はあったのですが、誰もグドネール先生を支援しようとしませんでした。僕は、一年生の青年と二人で、グドネール先生に会い、また支援をする自治体労働者の先輩方の話を聞きながら、支援活動に奔走するようになりました。署名を取る活動で、街頭に立ちました。教授たちの研究室を回りました。大学生協前に、大きな立て看板を立て、マイクを握りました。そんな活動をしながら、本当にたくさんの方に出会い、たくさんの話を聞きました。何より、在日の人たちの話をたくさん聞けたこと、お一人おひとりの胸に刻まれた歴史に触れることができたこと。感謝しています。ハンガーストライキをする人もいました。闘う全金本山労組の先輩方、行動するクリスチャンの方と知り合えたことも、幸いでした。一方「日本から出ていけ!」と、脅してくる右翼団体とも出会いました。マイクでがなり立てるだけでなく、実際に殴りかかってくる場面もあると、ドキドキしつつ、より一層闘う気持ちになりました。また、そんな右翼団体の行動にも、警察は何もせず、むしろ僕たちを弾圧してくることも知りました。ああ、国家権力は、治安を維持するためにあるのだと、学びました。結局、外国人登録法は、見かけだけ改「正」されて、運動のうねりは、ひとまず終息してしまいました。その後、グドネール先生に会う機会などもないままですが、あのときに出会った人たちと、もう20年近くなりますが、まだ同じ闘う場にいることは、僕にとっては小さな(けれども堅い)誇りです。
これからも、きっと闘っていきます。きっと、アチラガワには行かない。闘わない僕が、僕であり続けようとしていたら、「どうしたんだい?」と声を掛けてくださいね。
写真は、遊具の上の6年生です。なぜかこの頃、高鬼が流行りなんです。