昨日へ     2003年10月28日   明日へ

昨日の続きで、僕と指紋押捺拒否闘争のことを、書きます。

僕が、指紋押捺拒否闘争と出会ったのは、僕が宮城教育大学に在学しているとき、宮城教育大学の先生が拒否をしたからです。昨日書いた通りです。けれども、少しだけ気持ちの下のほうを流れているものは、以前からあったんです。それは、夕張です。

夕張は、炭鉱町でした。朝鮮人中国人の強制連行。僕は、町の歴史を小学校の社会科で学習しました。郷土の歴史として、学びました。今でも「わたしたちの夕張」という副読本を持っています。

僕のおじいちゃんは、戦前から炭鉱に勤めていました。だから、朝鮮人中国人の強制連行を知ってたはずです。日本人は、炭鉱は、劣悪な環境で、たくさんの人を働かせ、殺しました。けれども、いえ当然かもしれません、おじいちやんはその当時のことはほとんど話してくれませんでした。おじいちゃんの娘・僕の母さんが、敗戦まもない頃、社宅に大勢で押し掛けた朝鮮の人たちに連れて行かれそうだったこと、隣の家は窓ガラスを割られたり、殴られたり、大変だったことなど、少しだけ聞いたことがあります。

僕は、いじめられたことがあるからかもしれません、差別への抵抗、隔離からの解放を、自分の課題にするようになっていました。中学生のとき、本多勝一をよく読んでいた僕は、亡くなったおじさんに関わる文章の中に「万延元年のフットボール」という大江健三郎の小説の題名を見つけ、「ヒロシマノート」の筆者と同じであることを知り、関心を持ちました。そして、四国の山奥の物語を読むにつけ、夕張という谷間・閉鎖された空間を重ね合わせました。振り返ってみると、大江健三郎の小説は、ほとんど読んだのではないでしょうか。僕は、その中に登場する人々への共感を強めていきました。同時に、加害者である自分を見つめるようになり、高校時代、一人朝鮮人部落とされた地域探しをしたりしました。末広墓地にある慰霊碑に、たくさんの人・大陸から連れて来られ、帰ることができなかった人々の名前に、胸打たれた記憶が、今も残っています。ああ、僕には何ができるのだ?! 夕張の少年は、とにかくこの谷間から外に出ることを、切望しました。

そんな僕は、夕張を出て、札幌の予備校に通いながら、たくさんの演劇・映画に出会いました。そして、仙台に行き、自分からいろんなところに出向き、それはそれはたくさんの人と出会いました。小田実の影響です。「何でも見てやろう!」です。大江健三郎的には「見る前に跳べ」でしょうか。

そして、長いものに巻かれぬゆえに、もんもんと孤立している中、指紋押捺拒否闘争と出会ったんです。僕は、通う大学でのことであるとともに、夕張・炭鉱町の歴史を、そこで整理しようとしていました。出会うべくして出会った人たち!と、感じました。

ああ、あの学生時代から、早くも20年が経ちます。あのときの僕は、今の僕を軽蔑しないだろうか。あの頃の元気は、今も元気だろうか。

僕は、あの頃の思いを胸に、戸籍制度を問うていきます。そして、監視社会と闘っていく決意です。国籍や国境。差別や排外主義を、そのまま通してはいけないのだ!

写真は、26日の小牛田の空です。僕は、コントラストのはっきりした底のある雲が好きです。自分が小さく思える雲。

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