昨日へ     2003年12月19日   明日へ

今日、給食をみんなと一緒に食べていたら、ある少女が聞くのです。「なぜ学校の先生になったの?」これまであれこれと、昔話をしてきた僕ですが、そういえばそんな話はしていなかったんだなぁ。適当にごまかそうかと思ったのですが、真剣に聞くので、まじめに答えました。結局途中までしか話さなかったので、続きも含めて、書きますね。

高校生の頃、いろんな仕事を夢見ていました。映画監督とか、脚本家とか、新聞記者、心理学者、絵描き...。でも、学費の高い大学には行けないなぁと思っていました。でも、試験が難しい大学にも行けません。正義感だけはつっぱしってた高校生でした。抑圧された立場の人と共にあろうとしていていました。いつからでしょう、「障害児」教育に関心を持ちました。とくに、盲学校に興味がありました。本当は、映画監督のほうが魅力的だったのですが、「どうせ無理」という後ろ向きな自己評価があったんですね。消去法で、教員養成大学を目指すことになりました。冒険する勇気がなかったんです。

家からは離れたくて仕方ありませんでした。北海道も出たかった。ひょっとすると、盲学校教員養成課程を目指そうとしたのは、逆だったかもしれません、盲学校教員養成課程のある国立大学は、広島大学と宮城教育大学でした。広島は魅力的ですが、雪が降らない。僕は、雪がないところよりあるところがいいなぁと思いました。宮城教育大学は、林竹二学長が退官したところでした。でも、そのユニークな試験などは、興味深く、井上ひさしの「青葉繁れる」なんかも読んでいたので、仙台がいいかなと思いました。現役で受けて、落ちました。札幌で予備校に通い、次の年に受かりました。

宮城教育大学の「障害児」教育はC類というコースでした。入学してから、盲学校教員養成課程などを選びます。小学校コースか中学校コースも選ぶのです。僕は、小学生時代にいい思い出がないので、中学校コースにしようと思っていました。そして、わざわざ宮城教育大学に来たのだから、盲学校教員養成課程。...けれども、結局養護学校教員養成課程・小学校コースを選びました。なぜか? それは養護学校教員養成課程・小学校コースに、可愛い女の子がいたからです。いやはや。

教育大学の学生ではあったものの、「教育」への疑問、「教育制度」への反発が、日に日に高まりました。キャンパスにいない僕でした。きちんきちんと授業に出ることなく、あちらこちらに行って、いろんな人と会いました。いろんな話をしました。何となく「ちゃんとしたせんせい」が、嫌だなぁって感じていたんです。結局、確信犯的でもあるのですが、留年しました。5年間いて、卒業のために必要な127単位のところ、128単位で卒業しました。よく、卒業できたなぁ...

そもそも卒業もしないかもしれないと、思ったこともあったんです。でも。「教員にはならない」という考えを揺るがしたのは、何と言っても、子どもたちとの出会いでしょう。大学2年生のときに、下北を歩いて旅したときに出会った岩屋の子どもたちと文通しました。幸せでした。教育実習に行って、たくさんの子どもに出会い、いっぱい感動をもらいました。いい仕事じゃん!と思いました。でも、不良学生は採用試験には通るまいと、教員になるイメージだけを浮かべつつ、なれる気持ちは全くありませんでした。

それでいて、教員採用試験を受けたのは、なぜだったかというと、それは父さん母さんを安心させるためです。不良の僕は、随分心配を掛けました(今もですが)。そして付き合っていた女の子と一緒に暮らしていくためには仕事を得なければならない、しかも先方のお父さんお母さんが納得するような安定した職業が望ましい...と考えたためです。高校生の頃の僕が聞けば、軽蔑するような動機かもしれません。結局採用はB採用。まるではなくて、三角ってところです。

5年間住んでいた大学の寮。後輩たちが採用になって、出ていく3月。僕は、行き場所なく、それでも寮を出なくてはならず、女の子のアパートに転がり込みました。そこから、バイトに行ったり、介護に行ったり。そして、週に数度は、県の教育庁に行きました。「採用が決まりましたか?」と、尋ねる日々です。最初は、まだ分からないと言われておしましでした。何回目かに、名前を尋ねられました。机の中から分厚い書類を出して、見てもらいました。「ああ、君、教育大学なのに、あんまり勉強しなかったねぇ」と言われました。「またおいで」。その後、「また○○君(僕の名前)来たのかい」と名前を覚えてもらいました。でも、だめ。行くたびに、近くにあった生協の「鮮魚部募集」の貼り紙を見ました。今回だめならあそこに行こう、今回だめなら鮮魚部に行こうと思っていました。

4月になってしまいました。これでおしまいにしようと、出掛けて行きました。すると、「ああ、今電話が入っているかもしれない。アパートに戻りなさい」と言われ、ドキドキしながら、アパートに走り、電話の前に座りました。トイレに行くのも、スピーディーに行き、待ちました。けれども、5時を回っても、電話はないのです。暗くなりました。そして諦めかけた6時過ぎ、電話が鳴りました。「大河原教育事務所です」 僕はドキドキしながら、受話器を握っていました。「大河原方面でよろしいですか?」と聞かれ、「はい!」と答えました。ノーなはずはありません。

翌日、病院に検診に行き、その翌日大河原教育事務所に行きました。書庫のような部屋に入るように言われ、そこでずっと待ちました。高校野球の決勝戦のラジオが、隣の部屋から聞こえました。夕方になってから、僕が赴任する学校の教頭先生が車で来てくれました。白石の学校です。学校に行き、校長先生に会い、遅い電車で仙台に帰りました。その翌日、職員会議。そのまた翌日、もう始業式でした。ほんの数日前まで、鮮魚部に心を決めていた僕は、子どもたちの前で、落ち着いて自己紹介もできないくらいでした。ああ、あれから15年です。

...ああ、質問に答えていないかもしれませんねぇ。「なぜ学校の先生になったの?」「それは、子どもと一緒だと幸せだなぁと思ったから」....今年も、みんなと一緒で幸せだよ。

今日は夕方から、イラク派兵反対のデモに参加しました。古川でのデモです。教職員組合からのちらしで知りました。寒い中でした。けれども、80名くらいになりました。楽器を持って参加したのは、僕だけでした。みんな、わいわいと楽しそうでしたが、古川の町はシャッターの閉まったままの店が多く、道行く人も少なく、それが寂しかったです。

連れ合いのぴよさんが職場の忘年会でいない夜。三本木の三峰荘に行って温泉に浸かり、今日も「北の国から」を見ました。内田勇紀が出てくる「遺言・前編」。ぼんやり眺めながら、ビールを2本飲みました。

写真は、あのとき電話を待っていたアパート。今年の6月、ふらりと見に行きました。あんまり変わっていませんでした。

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