久しぶりに家にいるなぁという今日でした。これまで貯まりに貯まった日記の更新をして、原稿締め切りが近づいている仕事を少し進めました。
夕方から、仙台です。イズミティで、土井たか子講演会があったんです。これは行かねば!と駆けつけました。行くと、お久しぶりな顔にたくさん会いました。さすが、土井たか子パワー! 会場は、満員です。
僕は、今の国会情勢の中、基本的に土井さんたちに頑張ってもらいたい!という立場にあります。応援します。そして、今日の講演も、とても真っ当なものでした。けれども、幾つか考えたことがあります。
土井たか子頼みじゃ、駄目だなってこと。今日来た人のほとんどは、土井さん支持者だったと思います。僕などは、今の厳しい情勢の中もやもやしていたものを、土井さんに「駄目なものは、駄目!」と一刀両断してもらいたかったんです。ある意味、土井たか子というカリスマに、頼っていたんです。でも、それは間違っていました。かつての「マドンナ旋風」に、過去の栄光に、支持者がしがみついていてはいけないんだなと、気付かされました。土井たか子なら何とかしてくれる...という誰か頼みをしていては、どんどんじり貧です。地に足の着いた、僕たちの日常の中での闘いが、やっぱり必要なんだなと、感じたんです。
昨日の自衛隊派兵衆議院強行採決の翌日という、土井さん自身がまだ怒りの中で言いたいことが整理されきっていなかったという状況もあったかと思います。厳しく言うなら、そんな中でこそ、支持しない人にも染み渡っていく語りが、もっとほしかったと僕は感じています。論の進め方としては、もっと具体的なそして個人的なエピソード・信念・歴史から入って、最後に当面の課題について集中して訴えてほしかったと、感じています。憲法改悪を目論んでいる人たちが、国民投票の法律を作ろうとしていて、国民の2/3ではなく、有効投票の2/3で、憲法改悪をパスさせてしまおうとしていることなど、僕たちの課題となるものなど、もっと力を入れて訴えてほしかった。ここ(東北)に、闘いの火種をもっと蒔いてほしかったです。
僕は、言論の力を信じています。だから、政治は暴力ではなく、言葉の力で作られると考えます。言葉には、力があるんです。そんな言葉と言葉の闘いの場においては、言葉にはスピードや、間合い、音楽にしてみれば音色にあたるものが、欠かせません。かつて、福沢諭吉が「ペンは剣より強し」と言った時代は、言葉はモノクロのままでも力があったと思います。けれども現代において、言葉の力は周囲のあれこれに影響され過ぎてしまい、何ともそれだけでは自立できなくされています。というのは、どんなに素晴らしい文学よりも、お手軽なマンガを選ぶ現代。イメージ、たとえばビジュアルだったり、細かく言うならフォント一つに、左右させられてしまうほど流されやすい今なんです。土井さんの言うことは、真っ当です。けれども、イメージ戦略・マスコミ効果を背景にした多数派権力との闘いは、もっとこちら側の武装が必要です。論の構成も、ポイントの絞り方も、集会への参加の呼びかけも、多数派権力はきっとうんと努力して練っているに違いありません。そして、実際にそれゆえに多数派権力は、多数派でいます。もっと、力を付けたいと、昔を懐かしんでいるだけでは駄目だなと、感じた今日でした。
別姓を考える会で相談会をするたびに、「もう法律ができていると思っていました」という声をよく聞きます。それは、数年前に、「夫婦別姓」という文字がよく新聞などに載っていたからだと思います。よく読めばそうでないことは分かるのですが、何となくそうなんじゃないかと思ってしまう。たとえば電車の中吊りの週刊誌の広告を見ながら、誰かの考えに過ぎないものが「事実」のように勘違いされ「理解」されてしまう。そんな状況が今だとするなら、まさにデマゴーグの世界まではもう一歩です。やっぱり、いつものセリフですね、あわてず・あきらめず...僕たちは歩んでいかねば...
写真は、1980年頃の夕張です。旭町から旭台のほうへ山を登り、旭台に着いて、下りてきたところですね。向こう側は、福住です。あの頃は、コロを連れてよく山に行ったものでした。夏の山は、熊笹で歩けたものじゃないところが、春に近づく冬の山だと何とか歩けて、なかなか自由な気持ちになれましたっけ。ちなみに、写ってはいないんですが、母さんもコロも一緒だったんですよ、覚えてます?