昨日へ     2004年02月22日   明日へ

結局、昨晩、勢いで、作ったんです。教職員組合の役員選挙の葉書です。ちらしを作って、封筒に入れて、郵送するという作業をするだけのパワーはありません。お金もありません。そこで、葉書に僕の主張を書いて、それを選挙権を持っている皆さんのところ(学校)へ、届けることにしたんです。

文面は、こんな感じです。
中央委員に立候補した○○小分会の○○○です。
私たちの力で、「不適格」教員排除制度をなくしましょう。
宮城県は、「不適格」教員排除制度だけでなく、「優秀」教員表彰制度をスタートさせました。2004年度から教員管理制度(一人ひとりに評価カード記入を強要する)を進めようとしています。このままじゃいけません。
これまで私は、○○支部の大会や支部委員会、そして県の定期大会や県教研特別分科会、先日あった春闘学習会に参加して、宮教組がこの問題にもっと積極的な取り組みをするよう訴えてきました。「不適格」教員排除制度も表彰制度も、教員をばらばらにしてしまうものなんです。宮教組が、今より強力な取り組みをしなくては、取り返しが付かなくなってしまいます。
私は、恣意的な長期特別研修をなくす会の事務局として、戸田慎一さんの裁判を支援しています。この1月には全国教研の職場の民主化分科会に参加して、全国の仲間にこの制度の問題を訴え、多くの仲間と交流をしてきました。これらの経験を、宮教組の具体的な取り組みに反映させていきます。
私は、「不適格」教員排除制度をこのままにさせてはならないと考え、誰に推薦されて立候補したわけでもなく、一組合員として立候補しました。これまで組合の役員にもほとんどなったことのない私ですが、やれることは全部やらなければいけない!と考えています。ぜひ私に、一票入れてください。よろしくお願いします。
・「不適格」教員排除制度・「優秀」教員表彰制度をなくす。
・人事考課制度を導入させない。
・教育基本法の改悪を許さない。
私のことは、私の日記サイトに行くと、少し分かるかもしれません。
「ある小学校教員の毎日〜夕張の父さん母さんへ〜」
http://www.d3.dion.ne.jp/~kili/
※「小学校教員」で検索すると、ヒットします。

正直言って、疲れました。まず、学校の住所の入力にため息が出ました。でも、やり始めたら、投げ出すわけにも行かないんです。自分で自分を褒めながら、叱咤しながら、仕事しました。上の文章を書き、いつもの猫写真をレイアウトして、印刷。それがまた、スムーズじゃなくて、ため息が出ました。この努力、報われるのだろうかと、疲れながらも、こういうときばかりは、きっと神様が見ていてくれるのだろうと、考えたりしました。なかなか信仰心のある僕は、当選させてくれと神頼みはしないんですけどね。

昼から、仙台です。パレスチナの映画会が、メディアテークであったんです。温かな日差しの中、バイクで行こうかと思いつつ、Mac仕事をしながら電車で行きました。

映画「夢と恐怖のはざまで」(メイ・マリス監督 2001年)というドキュメンタリー映画だったんですが、ああ涙でっぱなし! いつも感想などは、ぱぱっと書けるはずの僕なのに、ほとんど書けなかったんです。

内容としては、パレスチナで難民キャンプに暮らすことを余儀なくされているある少女の周辺と、レバノンの難民キャンプで暮らすことを余儀なくされているあるパレスチナ人の少女の周辺を追ったもんです。彼女らの手紙での交流、そして国境の有刺鉄線を挟んだ対面の感動。人は、強いということ。そして、人は、弱いということ。それは、まさにイスラムの教えのようですが、そんなことを強く感じさせられた作品でした。インティファーダで、「これは○○のため」と、友だちの名前を叫びながらイスラエルの軍隊に投石する少女の姿が、うんと印象的でした。ああ、僕はきっと君たちの仲間。繋がっていたいよ。君たちの怒りと口惜しさそして寂しさは、国境を超えて、多くの仲間の闘いに繋がるでしょう。暴力に押しつぶされない、一人ひとりの暮らしは、大丈夫、きっとつかめる!

僕は、この映画をイスラエルの少年少女に見せたいと思いました。そして、そう思った途端に、教室のみんなの顔が浮かびました。ああ、僕がいつも一緒に過ごすみんなは、この映画をどう見るだろう。...そしてまた、思いました。ああ、僕がいつも一緒に過ごすみんなは、こんな暮らしを強いられたら、どうするだろう。闘うだろうか?

僕は、嘘をつかないで、暮らしていきたい。そんなことを、自分に、そして今見たパレスチナのきらきらした瞳を持つ少年少女に誓った今日でした。

写真は、1985年に下北を歩いて旅したときの1枚です。もうすぐ野辺地に着くというとき、自動シャッターで撮りました。足元にタオルが落ちていますが、これ歩き始めてから「どこかで落とした!」と、戻って拾った記憶があります。写真を見てから、「ああ、これ証拠写真だわ」と思ったのでした。そういえば、野辺地までの道で、バイクが僕を追い抜き、そして戻ってきたということがありました。ライダーの青年は「あんた、10日前に泊のほうを歩いていなかったか?!」と、興奮して話していました。僕は「はい」と答えたのですが、彼にしてみれば、この10日(以上)を、ずっと歩いていたことが信じられないようで、それはそれは感動していました。そんな彼を見て、僕も感動しました。ああ、あのときはもう少しで旅が終わるという空気だったから、なおそう感じたのかもしれない。

僕は、まだ旅の途中にあります。

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