罪を犯した少年が更生して社会に戻るのを、社会は応援しなくてはならない。それはそれは、どんな子どもについてもです。どんな人についてもです。レッテルを貼られ、排除されれば、更生はきっとできない。傷付くばかりです。更生すなわち社会への復帰が認められなければ、償うということも不可能になってしまいます。
人は、善くも悪くも変わります。僕は、人を信じたい。
もしも、信じなくなったら...。ある失敗は、その人格の存在すらを、認めないものになりかねません。昔、「ガキデカ」というマンガで「死刑!」っていうセリフがありました。僕が、小学生の頃、何かというと「死刑!」って言っていました。ああ、「天才バカボン」でもそうだったかもしれない。ああ、あれは「逮捕するぞ!」だったっけかなぁ。
罪は、償われるべきで、「死」は償いではなく、単なる報復。では、償いとは何でしよう。何より、罪を自覚し、反省し、二度と同じ失敗をしないことを誓い、そういう暮らし方をすることでしょう。自分が大切にしている人を殺されたなら、報復したくなる気持ちは分かります、はっきり言って。報復し合う社会にしないために、きっと法はある。報復しないため...は、報復されないため...でもあるんです。
人は、善くも悪くも変わります。僕は、人を信じたい。
変わるまでには、時間が必要です。助けも必要です。助けるためには、理解も必要です。人が、社会的生き物としての人が変わるためには、人が必要なんです。ワクチンとか、○○療法とか、部品を新たに付けたりとか、そんなことでは、変わらないんです。人間、待てなくなったら、かなり辛いです。殺伐とします。失敗は成功の元って、この頃何だか聞きません。失敗は失敗!...と、×の烙印を捺して、人を使い捨てて(使い捨てられて)いないか、不安です。
罪を犯す人が、誰もいなくなるとは、なかなかイメージできない世界です。それは、イメージしなくていいのかもしれません。失敗は、ある。でも、その失敗を、次に生かしていくことを、みんなで温めていきたいです。何だかきれいごとなんだけど、報復社会の匂いばかりするので、書きました。
写真は、昨日の縦割り活動での1枚です。縦割り班ごとに、レクレーションをしました。先日楽しかったものですから、大根抜きをする班がほとんどでした。こういうふうに、楽しいことは、他の学年のみんなにも伝わっていくんですよね。