昨日へ     2004年06月05日   明日へ

今日は、教職員組合の定期大会の日。訴えることがある僕は、バイクにちらし500枚と修正案500枚をくくり着けて、ほどほどに早く家を出ました。

天気は、めちゃくちゃいいです。明後日あたりから、曇り空が続き、ひょっとすると梅雨入りという話も聞こえます。そうすると、梅雨前のバイクに最適な季節は今日だけかもしれない? そんなことを思いながら、いつもの大郷・鶴巣経由で、仙台に向かいます。途中、田んぼにたくさんのカモメがいて、写真を撮りました。わざわざ群れになって水浴びしていたのは、何のためだったんでしょう? まあ、「気持ちいいからだべ」って言われるかもしれませんが。

定期大会の会場に着きました。さすがに一番乗りです。席は、執行部の目の前、最前列。荷物を置いて、書記さん方と話をしたりしながら、ぽつりぽつりとやってきた代議員の人たちに、ちらしを配りました。久しぶりにお会いする方もいました。声掛けてくださって、嬉しかったです。

さて、大会が始まりました。今日は、定期大会二日目で、総括については昨日話し合いを終え、方針に関わっての審議でした。僕が、こだわるのは、職場の仲間を裏切らないこと。分断を許さないこと。どんな人も、捨てたり、見下したりしないということ。だから、これまでも「一人の首切りも許さないのですよね!」と問うたり、「不適格」教員排除制度に対して、労働組合としてはっきりとノーを言い、具体的な闘いをしよう!と、呼びかけてきたんです。残念なことに、僕の意見は多数派ではなく、しかも執行部の支持も得られず、僕は今年も同様な発言をし、同様な修正案を出すことになりました。ああ、少し空しい。本当だったら、労働組合の執行部が「闘おう!」と、組合員を鼓舞し、ぐいぐいとリードするもんじゃないんだろうかと、考えてしまいます。

昨年度、修正案を3つ用意したものの、一人あたりの時間を著しく制限され、十分な討議ができませんでした。今年も、いっぱい訴えなければならないことがあったのですが、今回は一点にしました。「教職員評価制度」の導入を許さない、具体的な闘いの提起です。執行部の方針案では「反対します」と書いているものの、どう反対していくかが明確じゃなく、ひょっとして闘わないんじゃないだろうか?と読めるものですから、その点だけを訴えることにしたのです。ここに、僕の提出した修正案をそのまんま載せてもいいのですが、基本的に労働組合の内部でのものですので、その一部をかいつまんで載せます。

B4両面に印刷した修正案の始めは、僕が修正してほしいと思った部分を載せました。その中心は、次のような文章です。

開かれた学校づくりと教職員の開かれた関係(同僚性)の形成、教員の職能的成長(力量向上)を結びつけて「評価」のあり方の議論をおこします。

この文章(当然前後も入るので、もっともっと長いんです)を次のように修正することを提起しました。これは、僕の文章だから載せてもいいよね。でも、公平を保つため、全部は載せません。

「教職員評価制度」に対しては試行であっても撤回させます。
具体的には次のように「教職員評価」問題に対応します。
職場の仲間とのつながりを分断する「教職員評価制度」の問題を訴え、全教職員が団結して管理職に対して「書けない」と訴えていく取り組みを進めます。学校教育という仕事は、共同作業であること。それは、校長会も言及していることです。「教職員評価制度」を許すと、一人ひとりが分断行為を強いられてしまいます。「自己目標を書く」「評価する」ことが、互いの分断を呼び、学校をぎすぎすさせてしまいます。

まあ、こんな文章の前や後にいろいろ付くわけです。...説明に関わる文章は、載せてもいいと思います。

■ 私は、執行委員会の考え方には、反対しません。
 私は、執行部の考え方に反対をしません。ただ、闘うかための方針が必要だと考えます。
 執行部は、「教職員評価制度」に対して大きな危機感を抱き、毅然とした態度を表明しています。教育新聞号外(第18号04年5月12日:全組合員配付・※可能な限り全職員増刷して配付を)には、5月10日付けの執行委員会見解が載っています。《教職員を管理統制し、教育を変質させる「新しい教職員評価」に反対します すべての子どもたちの学ぶ権利を保障し、子ども参加・父母教職員共同の 学校づくりをすすめるための徹底した話し合いを求めます》と題されたものです。本文は、4章に分かれています。

 《1.はじめに》は、状況を整理した上、〈教職員組合は、教職員の管理強化で教育を変質させる「新しい教職員評価」の導入に強く反対します。〉と結ばれているものです。
 
 《2.「成果主義賃金」は民間でも破綻、学校になじまないことは明らか》では、「成績主義賃金」が〈民間企業でさえうまくいかない制度〉であると断罪し〈すでに「教職員評価」を先行して実施している県では矛盾が噴出しています。〉と論じています。

 《3.行政が校長を評価し、校長は教職員を評価する。ねらいは行政いいなりの学校づくり》では、〈「教職員評価」のねらいは、教育行政が示す政策目標にそって校長に学校教育目標を設定させ、その学校目標達成のために教職員に自己目標を立てさせ、教育行政がそれを「評価」することで教育行政いいなりの学校をつくることにあります。〉と最初に鋭く分析し、〈そのシステムを支えるために、教職員に対しては「優秀教職員の表彰」や特別昇給、人事の優遇と「指導力不足教員」という「アメとムチ」まで持ち出してきているのです。「教職員評価」は初任者研修からはじまる管理強化の総仕上げです。「物言わぬ教職員」によって「従順な子どもたち」を育てさせ、憲法改悪を容認し、戦争国家を支持する国民を生み出させようとするものです。〉と、言い切っています。
 
 そして、最終章《4.教育基本法に基づき、子ども参加・父母教職員共同の学校づくりの取り組みを》では、〈憲法・教育基本法を踏みにじり、教職員を分断し、「管理と競争」によって教育を変質させる「教職員評価」は何よりも子どもと父母の抱える悩みや困難をいっそう深刻にするものであり、断じて認めることはできません。〉と、きっぱりとノーを表明しているのです。

■ 今、どう闘うかが問題なのではないでしょうか。
 私は、この見解に基本的に賛成をします。私も、この制度を導入しては大変だと、危機感を抱いているからです。
 けれども、疑問があります。このように、制度の危険性をはっきり認識し、反対を訴えていながら、最終章は次のように締めくくられているからです。〈○教組はすべての子どもたちの学習権を保障し、子ども参加・父母教職員共同の学校づくりをすすめるために徹底した話し合いを求めるものです。〉 振り返ると見解の表題も《〜徹底した話し合いを求めます》とされています。「話し合いを求める」という文言に、「誰と」「何を」「いつ」話し合うのだろうかと、私は疑問を抱きました。問題意識には頷けるのですが、その問題を前に、問題を越えるための取り組みがはっきりしないのです。
 今管理職は、評価のための研修を受けているところです。分会員からの質問に答えられずT5月末日までに自己目標を書くのは無理だと思うが、評価のための研修を受けて来たら質問にも答えられると思うUと言っていた管理職は、少なくないのではないでしょうか。Tまあまあ、試行なんだから、とりあえず可もなく不可もないようなことでいいから、とにかく書いてよUと、なし崩し的にスタートさせてしまおうとする管理職も予想されます。
 管理職の研修が終わり、来週はじめにも、現場で分断が強いられようとしています。さて、今どんな「話し合い」をすればいいのでしょうか。

■ 議論するまでもなく、これは攻撃なのではなかったのですか。
 上の執行委員会見解を踏まえた上で、修正を提起する箇所について、見ていきます。
 本方針案のAに、私はとくに、大きな疑問を抱きます。評価制度は、上の執行委員会見解にあるように、とても危険なものです。学校を縛り管理する大きな流れの、まさに総仕上げなのです。にもかかわらず〈誰のため、何のための評価かを明確にさせ、人事管理や身分処遇と切り離し、あくまで子どもと教育に資するよう要求します。〉とは、管理強化の土俵に乗るものとは言えないでしょうか。そもそも制度のねらいは、執行委員会見解に明らかなのではないでしょうか。〈開かれた学校づくりと教職員の開かれた関係(同僚性)の形成、教員の職能的成長(力量向上)を結びつけて「評価」のあり方の議論をおこします。〉という姿勢は、制度の容認なのではないでしょうか。
 繰り返しますが、来週はじめには、研修を受けてきた管理職が「自己評価」についての説明を始めます。言うまでもなく、それは攻撃です。Tもしも書かなければ「不適格教員」とされるかもしれないUT達成しなかったら、どんな目に合うのだろうUと、教職員みんなが不安を抱いているのです。これ以上の混乱と問題の深化は、絶対に避けなければならない。代議員の皆さんは、どうお考えでしょうか。

と、まあこんな感じなわけです。(匿名にしても仕方ないかもしれませんが、どこの教職員組合かは、そのままでは分からないようにしました。)

さて、審議が進み、午後の討論。そして、採決の手前で、修正案について。議長が「執行部から」と言い、執行委員長がマイクの前に立ちました。「○○さん(僕ですね)は、執行委員会の考え方には、反対しませんと書いているのですから、取り下げ願います」と言いました。会場から、失笑が漏れました。去年の僕は、血圧を上げたことでしょうが、はっきり言って、予想していたので、笑う気にもなりませんでした。

別の修正案について、討論があり、その後、僕の修正案について。やれやれ、やっぱりこうなるのね、と思いながら、マイクの前に立ちました。

執行委員長の話は、午前中に60分も保障されているのに、僕にはたったの3分です。3分という時間に、集中しました。細かいことを説明する余裕はありません。ばらばらにされてはいけないこと。一人ひとりに「自己評価」のための紙が配られ、それを前にして迷う仲間を「納得できないんだから、書かないってことで行こう」と呼びかけられるよう、この大会で具体的な方針を持とう!と訴えました。でも、採決をしたところ「少数否決」の一言でした。最前列の僕は、すぐには諦めません。「半分近くいたから、数を数えてください!」「いいえ、少数です!」

大会が終わり、「団結がんばろう」と拳を挙げるとき、僕はちゃんといつわりなく、責任を持って闘わなくちゃなと、自分に言い聞かせました。僕は、いっつも少数派です。それが、ときどき誇りなんだけど、それにしても、本当にこれでいいのだろうか。これが、民主主義ってもんなのだろうか?と、いやはや勉強をしました。

会場を出て、隣町の方から「○○さん(僕ですね)の話には、いつもいつも引きつけられるなぁ」と言ってもらったのが、唯一の救いです。まあ、審議中、最前列の席から代議員の皆さんの間を通ってトイレに行くとき、少なくない方が僕の修正案の書かれたピンク色の紙を開いていてくれたことも、少しだけ救いかな? 開いていて、読んでいて、それでいて手を挙げてくれなかったのか...と思うと、くじけって感じかな?

でも、... そう「でも」なんです。昨年度の定期大会(2003.5.31)では、かなりへこんで、めげました。献血して、ギター買って、帰りました。あのときと比べて、僕は自分の成長を感じましたよ! 何というか、前向きに捉えられるようになったなぁ! そそくさと家に帰るバイクを操りながら、一つひとつの事象をまるで「修業」のように、「神のなせるわざ」のように、受け入れて、今後もっと強くなろうとしている自分を見つけました。誰かを見下さずに、自分をもっともっと大きくしなければならんのぉ...と、思えている自分が、少し頼もしかったな。よしよしじゃ。

家に戻り、四輪車で連れ合いぴよさんと、三本木に行きました。久しぶりのとんかつしんちゃんで、食事をして、一月ぶりの三峰荘で、半年ぶりのサウナ&水風呂に入りました。遠くから来たらしいお客さんが、説明上手なお客さんに、三峰荘のお湯のことを熱心に聞いていて、なんかいい感じだったなぁ。月は、きっと満月だったろうに、雲の向こう。でも、清々しい露天風呂でした。

やれやれ、いろんなことがある。若い頃の過激は、うるさいけど表面ばかり。中年になってからの過激は、静かに深いから、それはそれは大変なんじゃよ!

写真は、今日の鶴巣の猫。あいかわらず、やる気なく、人生を楽しんでいました。

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