昨日へ     2004年07月18日   明日へ

僕は「自動」社会に、かなり嫌気が差しています。ボタンを押すと、何かがゲットできたりする。そういう「自動」社会です。僕は、昔みたいな世の中のほうがいいと思っています。

僕が想う「昔」は、人の顔が見える世の中ということです。煙草は、煙草屋さんのおばあちゃんや看板娘から買うんです。もちろん、小銭入れから硬貨を出して、買うんです。自動販売機や、自動販売機みたいなコンビニの店員から購入するのとは、違うんです。何とかカードをかざしてぴっと音立てて購入するんじゃなく、やっぱりじゃらじゃらと硬貨なんだな。「買う」行為は、人と人との「商い」で、言葉も交わしたりするものなのです。「今」を幸せと感じている人には、「意味ないじゃん」とか「面倒くさい」とか「無駄」とか、言われそうなんだけどね。

自動車が増えて、人は挨拶をしなくなったんです。歩いていて道ですれ違うってことって、ないんです。時速60kmですれ違うフロントガラスの向こう側を、さっと見て、ときには会釈もするでしょう。でも、言葉は交わさない。よく子どもたちに「挨拶をするもんだよ」と言うのですが、大人が挨拶するところを見たことがなければ、できなくて当然ですね。原始時代も今も、子どもは大人から学ぶんですから。「学ぶ」って「言うことを聞く」ってことじゃあありませんよ、あくまで「学ぶ」。「真似る」ってことばに、かなり近い。

いやいや会話はしているという人がいるかもしれません。携帯電話でしているよって。なるほど。でもね、いわゆるたわいないものもあるかもしれないけれど「情報交換」だったり「データの流通」だったりするんだろうな。携帯電話を否定はしないけれど、電話しているときって、周囲との関わりを断っているじゃないですか。「ごめん」って言って、ぴっと会話を切れるじゃないですか。あれって、僕は嫌な風景。だから、未だ携帯電話を持つ予定はないんです。普通の電話も、未だ嫌いです。

「自動」社会は、徹底した合理化を要求します。すぐに「結果」がでなくちゃいけない。あらゆる「要求」は、即座に叶えられなくてはならない。この頃とてもよく感じることは、人はみな「消費者」という「要求」する側に立つことばかりに慣れて、「要求」を叶える側に立つことを意識していないんじゃないかということです。モノが、誰が・どこで・どのようにして作られたかなど「過程」(あえていうなら「苦労」)に関心を示すことなど、もう忘れてしまったのではないかということです。要求されるとイライラするのに、人には要求できるんだよなっ。

誤解なく簡単に言うなら、「おもいやり」がもっとあればいいのにって、思うんです。働く人のこと、その誇り、その汗。国境を越えて、僕たちはいっぱいたくさんの人を、実は虐げています。そんなことに気付きたい。そしてまた、急ぎすぎて、要求過剰で、互いに傷付いています。イライラしています。み〜んなして、せぇのぉ!って、急ぐのを止めたらいいのに。「負ける」とか「さぼる」とか、危惧があるのかもしれませんが、イライラしているよりも、ずっとましだなぁ。

昔がよかったという人の中には、昔の「秩序」を重んじるという人が少なくありません。「親父の権威」とか「鉄拳制裁」とか、そんな話。でも、そりゃあ暴力だから、傷つく。そういうのが嫌な僕は、要するに「差別」なく、「おもいやり」持って、慌てず暮らしていきたいのです。みんな「平等」だと、何か困ることってあるんだろうか。

「何を暢気なこと言ってんの!」と言われるかもしれません。はい、暢気なことです。今、暢気がなくなっちゃったら、人間は人間じゃなくなっちゃうかもしれません。世の中全部が「利害」に支配され、負けないよう、死なないよう、走り続けることを当然とされてしまいます。かつて「交通戦争」とか「受験戦争」とかって言葉がありました。今や「全面戦争」なので、そんな言い方、聞かなくなりましたねぇ。

自分が殺されたくないから、誰かを殺す。これが「当然」にならないよう、唇に歌を、心に暢気を。荒げない世の中を、自分の周囲から、作っていきたいものです。

さて、今日は、夕方から連れ合いぴよさんと、古川で買い物をして、そのまま名取へ。とっても久しぶりに介護先に二人で行ったんです。介護先のお母さんが喜んでくれて、よかったな。夜道を、ラジオドラマを聴きながら、帰ってきました。

写真は、1970年代後半の夕張・旭町での1枚。妹たちが、石炭小屋に上がって、シャボン玉を楽しんでいたんです。

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