昨日へ     2004年08月12日   明日へ

今日は、合格発表の日です。

日記読者の皆さんへ、告白します。来年度から2年間、僕は青年海外協力隊として、外国の小学校で働くことを希望し、春から健診を受けたり、試験を受けたりしてきたんです。今日は、その最終選考発表の日なんです。

今回、ゆっくりと連れ合いぴよさんや父さん母さんと過ごす日程を取ったのは、しばらく一緒にゆったり過ごせないかもしれないから。2年間、留守にするかもしれないから。だから、なるべく一緒にいることを心がけて過ごしたんです。

7月に、父さん母さんへ手紙を書きました。特定を避けるために、部分的に替えていますが、こんな手紙でした。僕の、青年海外協力隊をどんな思いで希望したかが分かると思うので、私信ですが、そのまま載せてしまいますね。かなり長いです、あしからず。

2004.07.05
夕張の父さん母さんへ

海外青年協力隊への応募について

海外青年協力隊(現職教員特別参加制度)に願書を出し、二次選考に臨む段階に至っています。ご理解いただけるよう、これまでのことについて、説明します。

1 卒業式の午後

三学期の忙しい頃、青い色のパンフレットが職場に届き、少しだけ話題にはなったんです。「どうだい、○○さん」なんて、おしゃべりがあり、「いいねぇ」と、いつものおしゃべりとして答えていたんです。真剣に考えてはいませんでした。現職のまま行けるんだ...ということは、へぇという程度にしか響かず、卒業式のためのあれこれに追われる時間にすぐに戻ったんです。

そんなこんなしながら、二年連続の卒業学年担任。二度目の卒業式が終わりました。ほっとしました。いっぱいいろんなことがあったと、ぼんやり振り返りました。昨年は、卒業式の後、私はすぐに家に帰ったんです。疲れたからです。今年も、疲れました。二年分のため息がふぅ〜っと出ました。だから今年も早く帰りたかったんです。でも、卒業式の午後に内示があるということで、早く帰るわけにもいかず、職員室でぼんやりしていました。そんなとき、机の上のぐちゃぐちゃな紙の中に、青いパンフレットが見え、何となく眺めたんです。

おやっと思いました。「青年」じゃないとダメなので、私はもう到底できないと思っていたけれど、今年受験するなら(5月の段階で30代であれば)大丈夫なようです。また、何か特殊技能が必要なのだと思っていたのですが、「小学校教諭」という枠があり、今の私のままで受験資格があるというのです。

卒業式の午後、ぽっかり空いた胸の中に、ちらっと火が付いてしまったんです。ダメで元々。最後の年なんだ。チャレンジしてみても、いいんじゃないだろうか。そう思ったら、もういろいろと調べ始めました。

2 少年の頃のこと

私が、海外に行くということを考えたのは、かなり昔のことです。夕張にいた頃、ベトナム戦争が終わったばかりの頃。本多勝一を読み、新聞記者に憧れ、沢田教一の写真を見て、一ノ瀬泰造のカンボジア手記を読み、僕はカメラマンになることを夢見ました。知らないところに行き、知らないものを見て、それを伝えるという仕事。ジャーナリストという響きに、ときめきました。それは、父さんも母さんも知っていることだと思います。

けれども、どういうわけか、そんな夢を諦めました。「現実的でない」という判断で、何とか「普通なんだけど普通じゃない」という活路を見出そうとしました。「普通」とは、「レール」と置き換えることができるかもしれません。何者かに私の人生を決められたくない。そんな意思があり、そのエッセンスだけでも、何とか生き永らえさせたかったんですね。だから、北海道教育大学には行かず、林竹二の宮城教育大学を選びました。ひねくれ者のあまのじゃく。どこかに、自分の理想を諦めたくない思いをしていたんです。

学生になり、いろんなところに行き、いろんな人と出会い、いろんな闘いをしてきました。そんな中での付き合いを、「就職」の名の下に切りたくなかったので、申し訳なかったのですが、宮城の留まりました。まあ、教員採用試験にパスしただけで、驚きだったのですが、それはぴよさんと暮らしたいという、そのへんのエネルギーに依るものだったのではないかと思っています。

かつて、就職は終着でした。安定でした。ゴールインでした。けれども、それはイメージだけのこと。むしろ、就職後にこそ、いろんなところに行き、いろんな人と出会い、いろんな闘いをしています。ある意味、私の「場」は今ここに確かにあり、私の存在は希有なものと自負しています。何というか、似た人がいなんです。それゆえ、私は私であり続けなければならない。そして、そうありたいのです。だから、これまでの15年の教員生活の中、教員を辞めたいと思うことはありましたが、それは闘いから逃れることにもなると、現実的な展開にはなりませんでした。

そんな中、別な暮らし方が突然目の前に開け、それが実現させようとすれば実現できるものであることに、私はうんと驚いたんです。

3 ぴよさん・父さん母さんのこと

まず第一は、ぴよさんに理解してもらえるかどうかです。すぐに、話しました。快諾はしませんでした。一晩後、応援してくれるようになりました。

ぴよさんに話した日から、3ヶ月以上が経ちますが、私の中で一番心配なのは、私のいない日々・一人暮らしのぴよさんです。申し訳ない気持ちが、かなりあります。生活への不安も、大きいのではないかと思っています。

ちなみに、今回踏み切るにあたって、私自身以外のことについて、二つ考えました。一つは、私たちにきっと子どもはできないだろうということ。子どもが、たとえば小学生くらいの子どもがいれば、私は少し気が楽です。ぴよさんが一人じゃないからです。でも、乳幼児だったり、妊娠していたりだったら、きっと踏み切らなかったと思います。神さましか分からないことなのですが、きっと私たちに子どもはできない。30代、最後の年にして、そう思い、海外に行ってもいいと判断しました。

もう一つは、父さん母さんのことです。私が応募した現職教員特別参加制度は、学校の年度単位に合わせた海外派遣になっています。私が合格した場合、来年の4月から6月までは国内で研修。7月から残りの2005年度と、翌2006年度を海外の学校で過ごし、2007年度の4月から現籍校復帰するというものです。さて、父さん母さんのこととは、父さん母さんの健康状態のことです。今お元気なので、何よりと思っています。千葉についてそうです。もしも、誰かが要介護だったり、入退院を繰り返すようなら、海外には行けません。二年後絶対に元気でいるだろうと私は思います。そこで決断したんです。

4 校長へ

3月の段階で、2003年度の校長は転勤し、4月には新しい校長を迎えることが予想されていました。私が現職教員特別参加制度に志願するには、所属校長・町教育長・県教委の承認が必要なんです。校長が推薦してくれないと、話にならないのです。新校長は、私のことをあまり知らないうちに、推薦書(評価)を書くことになります。不安がありました。そこで、ぴよさんにOKをもらってすぐに、校長に志願したいことを伝えました。二つ返事でOKでした。

4月に新校長が赴任しました。すぐに、海外のことを話しました。既に引き継がれていました。新任の女性校長。とても爽やかな方です。快諾でした。「本当は、海外に行ってほしくない」と言いながらも、すぐに取り組んでくれました。

5 説明会へ

校長も教委も、海外青年協力隊の情報を持ち合わせていません。僕は、4月12日に行われる説明会に出席しました。仙台での説明会です。若い人がいっぱいでした。考えてみると、私が最年長なんですね。最後のチャンスなのですから。

パンフレットをもらい、映画を見、実際に派遣された経験者から話を聞きました。いろんな職種に分かれての話し合い。私は、小学校教諭としてマーシャルに行った小学校教員の女性・Тさんと話すことができました。やっぱり直接聞くことは大事ですね。いろんなことが分かりました。

治安が悪いところには、絶対に行かされないこと。何かあったら、すぐに現地の調整員が支持・援助すること。井戸掘りなどの要請であったらともかく、小学校教諭の要請がある国は、電気などのインフラが整った上での要請であること。行く国は、要請があった国の中からということになるが、基本的には志願者が選択するということ。マーシャルについて言えば、日本の学校のレベルとは全然違って、がっかりすることも多いということ。派遣された国から出るなどの移動には、制限があること。結婚をしていて、連れ合いを日本に残して出掛ける隊員もいること。不合格の一番の理由は、健康診断で見つかった不健康であることなどなど...

願書を出した(4月16日)後ではあったものの、ぴよさんにどんな様子なのか知ってもらうために、4月25日、今度は二人で説明会に参加しました。ぴよさんは、治安が大丈夫ということに、ほっとした様子でした。また、ぴよさん自身が訪れやすい国がいいなぁと言っていました。その日もТさんがいて、それならマーシャルが比較的いいよと話していました。実際、その前の週に願書を出したとき、希望国は「マーシャル」と書いていました。

6 書類提出など 

その後、願書の他の書類が不備だったのですぐに出すようにとか、用紙が違うから差し替えてすぐに東京へ出せなど、県教委といろいろやりとりをしました。県教委からは、4月28日付けで承認する旨の文書が来ていました。

ゴールデンウィークのとき、このことを父さん母さんに話そうかと思いましたが、やめました。なぜなら、健診で引っ掛かる可能性が高かったからです。6月21日までに、健診結果をJICAに必着ということだったので、6月3日に健診の予約を入れ、年休を取って、健診しました。血液に関わる検査が多く、日数を要しました。2週間後の17日に健診結果を取りに行きました。診断結果の説明と、幾つかの問診がありました。5月半ばから、ずっと禁酒していたので、さすがに肝臓などは至って健康。しかし、尿酸値が少しだけ高いということでした。肉類ばかりの生活だとそうなるということでしたが、私たちは割合、野菜生活です。お医者さんにいろいろ聞いたところ、お茶などをよく飲んでいるほうがいいということでした。僕は、あんまり水分を摂らないんですね。それから、心がけて水分補給をしています。

さて、診断書はすぐに東京に送りました。とりあえず、やることはやったということで、ほっとしましたが、その数日後に、書類の不備などについてfax一回、速達一回。その都度、書類を整えて送りました。

そして、7月1日。速達が届きました。健診で引っ掛かることはなく、二次選考に進むことになりました。二次選考は、東京で7月21日にあります。20日の終業式を終えたら、すぐに行き、どこかに泊まり、翌朝から夕方までです。面談や、健診などだそうです。いよいよという気持ちでいます。当初は、全部決まってから父さん母さんに話したほうが余計な心配をさせないで済むと思っていましたが、健診でパスした段階で、お話しすることにしました。そんなわけで、今こうやって書いているわけです。

7 これから

今日7月5日。これから、健診の再検に仙台に行きます。血液について、もう一度データが必要と連絡があったからです。また、東京20日の宿泊予約をどこかの旅行会社でしてきます。これから、まさに学期末で忙しくなるので、やれるときにやれることをしておきたいのです。10日には、ぴよさんと一緒にТさんに会い、試験の様子を聞く予定です。

7月20日の選考の後は、8月12日の最終選考発表まで、待つばかりです。逆に言うなら、8月12日あたりには、来年どこに行くかまで分かることになります。落ちてしまえば、まあしょうがない。受かったならば、後半年以上あります。あれこれと対策など、準備に当てるつもりです。冬休みに、ぴよさんと下見をすることも可能です。

この夏は、学校関係がどんな日程になるか分かりませんが、とりあえず夕張にこの件について説明をしに行くつもりです。8月12日よりも前のほうがいいかなと思っています。この手紙が着く頃、こちらから電話をするつもりです。

8 最後に

ずっと行きっぱなしではありません。学校にも戻ります。父さんは、内地留学で旭川に行きましたが、僕はもう少し遠くに行くかもしれないというぐらいのもんです。ご理解ください。

昔から、心配ばかり掛ける息子で、ごめんなさい。普通に穏便に落ち着いた暮らしをすればいいのに、いつまで経っても、私はやっぱり私なのです。できるならば、応援してください。よろしくお願いします。

以上

さて、今日僕たちは宮城県に帰ることにしていました。午後6時の飛行機です。合格発表は、正午。けれども、母さんの仕事が、昼から札幌市街であります。結局、札幌市街に出て、僕のiBookでインターネットサイトにアクセスし、母さんの仕事前に、合否を確認することにしました。

正午。iBookでjicaのサイトにアクセスしました。最終選考合格者の更新がされています。クリック。すると、数字が並んでいます。むむむっ! 僕の受験番号は...ありませんでした。なかったんです。やっぱり、ダメだったんです。

ふぅっと小さいため息をつき、「なかったよ」と言って、父さん母さんぴよさんに、モニターを見せました。みんな、安心したような反応ですよね、やっぱり。でも、さすがにあからさまに「よかった!」とは、言いませんよね。

昔の僕なら、「まあ仕方がない...」とか「ダメだと思ったんだ」とか、そんなことを言ったかもしれません。でも、やっぱり残念だよ。「ああ、がっかりだぁ!」はっきりと声に出ました。ああ、がっかりだぁ!

母さんの仕事が終わる3時まで、自由時間ということにしました。父さんは、どこかへ出掛け、母さんは仕事。僕とぴよさんは、とりあえず北12条に向かいました。地下鉄に乗ります。

不合格の覚悟も、気持ちの準備も、それはそれはいっぱいしていて、ダメだったら、どんなふうに考えようとか、ならば次の目標は何だ!とか、いっぱいいっぱい考えていたんです。けれども、その事実を目の当たりにすると、想像していた以上の重い石が上半身を半分にするみたいです。心にぽっかりと穴が空いて、風が通り抜けるとは思っていたんです。でも、実際は生易しくなかった。穴は全身を一度伸してぺらぺらにして、大きなパンチで穴を空けたもの。紙きれの僕の体は、突風にちぎれそうな感じ。空気の抜けた僕の体は、ボロ着れで、ぐるぐる回る洗濯機の中。でも、そこは洗濯機ではなくて、電車の便所。青い水が出て、ぐるぐるしているうちに、きゅーっと吸い込まれていってしまう感じ。...ああ、がっかりだ!

何か買いたいものを買って、気持ちを紛らわせるという話もありましたが、今の気持ちを、お金で買われてしまうもので補えそうにはありません。それは、今の気持ちに対して失礼というもの。結局、懐かしい北12条の秀岳荘で、父さん母さんそれぞれに、でかい熊鈴と、それを通すためのベルトを買いました。地下街ポールタウン・オーロラタウンもぶらぶらしましたが、自分のために何かということはなく、職場へのおみやげを買っただけでした。楽器屋さんも覗きましたが、ときめきよりも、整理されない気持ちの存在を確かめるだけでした。

3時に父さん母さんと会い、妹とも顔を合わせ、別れを告げて、札幌駅に向かいました。さあ、宮城県に戻ります。北海道でのだらだらした夏もおしまいです。観光客が並ぶ時計台の前を通り、驚くべき巨大なビルと化した札幌駅に入り、急いで楽器屋さんをパトロールし、新千歳空港行の列車に乗りました。北海道の景色は、どんどん車窓を流れ、僕はたくさんため息をついたかもしれません。空港で、搭乗手続き。そして荷物を預け、ラーメン屋さんで急いでラーメンを食べ、出発時刻ぎりぎりに飛行機に乗りました。雑誌「山と渓谷」を眺めながら、新しい自分を何とか見つけようと模索していました。輝く夕焼けを眺めながら、へこたれるなよと、心に囁きました。

仙台空港に着き、急いで雑誌「サイクル・スポーツ」を買い、館腰までバスに揺られ、館腰から電車に揺られ、松山町に着いたら、僕はまたため息。ああ、何かが終わったな。そして何かが始まるはず。

写真は、飛行機から見えた夕焼け。僕は、一つの太陽しか知らないんだけど。

昨日へ        明日へ

はじめのページ