昨日へ     2004年10月17日   明日へ

昨日は、Tの結婚式。とてもめでたい。

でもその一方で、僕の中では「夕張記念日」でもありました。高校二年の10月16日。炭鉱事故の日です。あの日は、僕が僕であるための原点でもあります。あの怒りが、僕を僕として支えているに違いありません。

1997年、王城寺原演習場での米軍演習に反対する喜納昌吉コンサートを行いました。その実行委員会では、とてもとてもいろんな出会いをし、貴重な時間を過ごすことができたのですが、その最後の集まりで、僕は自己紹介みたいな文をみなさんに渡しました。その中の一部を載せますね。

(前略)生まれは、北海道の夕張市です。炭鉱生まれの炭鉱育ち。閉山が相次ぐ中で、思春期を過ごしました。

炭鉱城下町の夕張では、「社員」「鉱員」そして「下請け」の差別がありました。住む町も住宅の佇まいも、違いました。あまりお風呂に入れない友達、顔中大火傷の行商の花屋さん、いつも独り言をいいながらゴミを集めていたお婆さん、野犬狩りのおじさん、大きなこぶのある年齢不詳の男性・・・あからさまな差別がたくさんありました。けれども、いろんな人がいることが、自然でした。ある意味、おおらかな労働者の町でした。

高校2年の10月16日、最も大きいそして唯一とも言える炭鉱で、ガス爆発がありました。放課後、部活動をしているときでした。事故の噂が届き、どうやら2・3人亡くなったらしいということでした。心配だから電話をかけて来ると、何人かが公衆電話に走りました。けれども、受話器をあげると、混線を伝えるアナウンスが響くだけ。結局その日の部活動は、すぐに解散ということにしました。

ゆっくり家に帰った私は、テレビを見て驚きました。2・3人ではないのです。93人。地底4000mには、まだ人がいるらしいということでした。その夜夕張の狭い谷間には、救急車の音が絶えませんでした。

ガス爆発があると、坑道火災が起きます。石炭の中の穴ですから、すぐに燃えます。会社は、それを鎮火させるために、坑道への注水を提案しました。社長は、この炭鉱がだめになるともう会社自体が危ないのだと頭を下げていました。大声で叫ぶ家族の表情がテレビに大写しになっていました。地底には、まだ人がいます。生きているかもしれません。町中が揺れました。

1週間の後、注水が決定されました。土曜日でした。帰りのホームルームで、午後1時に注水されるから、そのときは黙祷してほしいと担任が言いました。教室は、しんとしていました。部室に寄った私は、他の人より遅く、一人で高校の坂を降りていました。大きな雪が、舞っていました。不意に、谷の向こうからサイレンが鳴り始まりました。すると、犬の遠吠えのように、いろいろなサイレンが鳴り始め、谷中がサイレンの唸るような音と、風に吹かれる雪でいっぱいになりました。

うかつにも気持ちの準備をしていなかった私は、どきどきしました。誰もいない坂道で、立ち止まり、目をつぶりました。水の音が、聞こえるようでした。

今、夕張には、私の通った幼稚園も、小学校も、中学校も、そして高校も、ありません。たくさんの人が、仕事を失い、出ていきました。みんな、どうしているんだろうなと思います。坂ばかりで平らなところがなく、川は洗炭のため真っ黒に汚れ、そして差別に満ちた町でした。でも、人の暮らしが見えた、愛しい町でした。(愛しい町です。)

こんな町で、○○少年は、本多勝一や小田実などを読み、外の世界に出ていきたいと考えていました。そして、夕張からなるべく遠くと思いつつ、雪がないと寂しいからと宮城県に来て、いつのまにか15年になろうとしています。○○少年も、おじさんです。(後略)※1997.11.30

あの頃の少年に、僕は恥じなくていい生き方をしなくてはならないと、思っています。ときどき少しだけ、心配になります。

さて、夜は介護でした。体力の衰えですね。へとへと介護でした。強くなんなきゃなぁ。

写真は、僕が中学生の頃の一枚。夕張・新二鉱です。10.16の炭鉱事故とは別なところ。でも、思い出深いところです。

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