昨日へ     2005年02月17日   明日へ

今日も午前授業です。インフルエンザの流行です。すっかり人が少ないので、国語も算数も復習系です。班ごとに黒板の前に来て、僕が口で言う計算問題を解いたり、漢字を書いたりします。交代交代じゃんじゃかやるんです。みんなも慣れて「こういうの、楽しい」って声も聞こえてきました。

インフルエンザの子の家に寄りました。ひさしぶりに顔を見た子。でも、まだ本調子ではないな。おうちの方と少しだけ話しました。

年休を一時間取って、家に戻り、電車で仙台に向かいます。今日は「STOP!憲法24条改悪キャンペーン〜せんだい集会〜家族の重視で何が変わるか〜憲法24条の意義〜」という集まりがあるんです。

家を出るとき、少しだけぞくっ!としました。あれっ?と思いました。来たか?と思いつつも、電車の時刻が迫っていたので、自転車で駅まで飛ばしました。電車の中で、文章を書き、会場のエルパーク仙台に向かいます。

福島大学の中里見博さんのお話を聴きました。改憲したい人たちが言うところの「家族の責務」という件が、心に残りました。「扶助する責務」というものです。僕は、なるほどと思いました。

「家族が助け合う」って、この日本列島においては「あたりまえ」みたいな感覚です。それは、きっと悪いことではないんです。けれども「家族で助け合う」という義務が定められたとき、それは「国家は保護しない」ということを意味するんです。また、「家族」に問題が生じたとき、それは「家族の責任」とされるに違いありません。すると、問題が生じないように、家族が家族を監視・管理するようになるでしょう。

そこで、思い出されたのが、そんなに前のことではない、少年の事件のことです。子どもを殺してしまった少年、その親を「市中引き回しにするべきだ」と、政府の大臣が発言しました。それは、子どもの責任は親の責任であり、親を責めるには大義があるという考え方です。見せしめとして、失敗をした者に罰を与えれば、他の者が恐れて「正しく」過ごすという恐怖政治を、よしとするものです。まさに、不安によって「秩序」を作ろうとする支配体制です。

僕は、中学生のとき、公民の資料集を読んで、ショックを受けたことがありました。「尊属殺人」についての資料に驚いたんです。家族を殺したほうが、他人を殺すよりも、罪が重くなるのは、憲法違反であるという考え方に、僕は驚いたんです。家族であろうと、誰であろうと、「命」の重さは同じであるということが、とても新鮮だったんです。僕は、ジェンダーフリーや夫婦別姓のことをお話する機会があるとき、ときどき話します、「皆さん、親孝行は善で、親不孝は悪って、思っていませんか?」って。あなたは、どう考えますか?

ちなみに、先日のニュースに、僕はショックを受けました。難病の息子を殺した親に執行猶予付きの判決が出たということです。息子本人が死にたいと言っていたとしても、殺すことを許すのは、おかしいです。難病または「障害」があったとしても、それは命の重さには関係がないのです。僕は、少しこだわるつもりです。

講演の後半は、熱が出てきたようで、ふらふらでした。エルパーク仙台から仙台駅まで歩き、無理して立ちそばを食べてみました。味が全くしなくて、やばいと思いました。コップの水が何よりおいしくて、こりゃあまずいと焦りました。電車に揺られ、松山町駅に降り立ち、凍るように寒い中、自転車をこいで帰りました。ペダルを踏む脚がとても痛く、家に入って、体温を計ったら、38度。あー、こりゃ、インフルエンザだっ! 厚着をして布団に入りましたが、凍えるばかりの夜でした。

写真は、今朝の三本木のケヤキです。

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