今日は、学校はお休みです。土曜日に学習参観日があるのですが、その振り替え休業が今日なんです。僕は、免許書き換えのために、古川の免許センターに行きました。天気はよく、暖かです。
免許センターで、視力検査などをして、写真撮影。そして、講習。なーんと、かなり前の違反の賞味期限が切れていなくて、うんと長い講習でした。なんかがっかりでした。講習の先生が「長いですが、頑張ってくださいね」と言っていて、講習があまりおもしろいものではないことを物語っていました。
ふー、新免許証を手にしました。今回は、髪の毛を結ばない金色ライオン頭。こりゃもうかなり変なおじさん!
昼ご飯を、古川・台町のパーラー富士屋で食べました。ラーメンです。ここのところ、体脂肪対策で麺をなるべく食べないようにしていたのですが、まあたまにはよいでしょう。ソマキで、Rockoonベースのスタンドを買いました。うさぎ屋さんで、いい感じの手ぬぐいを買いました。なんともかわいい、いい感じのうさぎ屋さんです。
さて、家に帰り、今度は電車で仙台です。今日は、恣意的な長期特別研修をなくす会の県教委への申し入れ行動なのです。
宮城県教委に2005年8月3日に出した公開質問の回答が、10月18日に届きました。しかしながら、それについての意見を述べていなかったので、遅くなってしまいましたが、2006年2月13日、県教委に行ってきました。参加したのは、恣意的な長期特別研修をなくす会の会員4名。研修免許班の班長が年次休暇で不在だったため、課長補佐が私たちと対応しました。県教委の窓際のテーブルで40分の話し合い。下に載せた意見書について説明をしました。
「判定委員とは? 審査委員会ならある」とのことでした。「長期特別研修制度」「優秀・優良教職員表彰制度」が一体のものであることが理解できないということでしたので、説明を重ねました。精神疾患の教職員をケアすることについては、どちらかというと意欲的・柔軟な対応でした。「病気であることを、校長が判断できると思いますか?」という問いは、効果的だったと感じています。長期特別研修中でも、病気を治すことが優先されると話していました。「何よりも本人の健康第一ですよね」と確認したところ、頷いていました。担当の班長がいるときにまた訪れることを告げて来ました。要求書は、次の通りです。
2006.02.13.
宮城県教育委員会教育長白石晃様
要求書
恣意的な長期特別研修をなくす会
2005年10月18日に回答いただいた《指導力向上のための長期特別研修について(質問状)》について、私たちは次のような意見を持ちます。よりよい学校教育現場を作るため、施策に反映していくことを求めます。
1 精神疾患に対する理解を、指導すること。
現在、疾病とくに精神疾患を患っている教職員に対する周囲からの理解は、残念ながら十分になされているとは言えない状況です。直ちに全教職員(ことに管理職)に対して、精神疾患への理解を図る指導を行ってください。
昨今、精神疾患患者の増加が統計されています。それは、極度に緊張を要する管理監視競争社会が背景にあると、私たちは考えます。競争を強い、「勝ち組」「負け組」などと人間の尊厳を貶め、一つの失敗も許さない...そんな状況が、人の健康を脅かし、苦しめているのです。
民間企業においては、精神疾患に対するケアが広がりつつあります。対処療法的なケアだけでは、今の状況(管理監視競争社会)の問題は解消しません。けれども、たとえ対処療法的であるとしても、ないよりましです。今の学校教育現場には必要です。求められます。
教職員の健康への配慮は、多くの現場においては管理職の「健康に留意してください」という言葉のみに終わっています。風邪で出勤し切れない体調でも無理をしてしまう教職員は、たくさんいます。ましてや精神疾患ではないかと自己診断しつつも、そのことを誰に相談することもできず、無理を重ねている教職員は、相当な人数になるのではないでしょうか。
質問状の回答(2 認定について)には、精神疾患を理由に「指導力不足」とされることがないとありますが、たとえば〈「日常的な職務の遂行に支障を来していること等に該当」〉しているとして「指導力不足」とされる教職員が、精神疾患であったということはないのでしょうか。本人からの申し出がないゆえに、精神疾患ゆえの〈「日常的な職務の遂行に支障を来していること等に該当」〉ということはないのでしょうか。精神疾患とそうではないものとの線引きは、どこでどのようにしているのでしょうか。
精神疾患は、誰もがかかり得る病気です。けれども、他の病気と比べ、特別視されがちです。精神疾患に対する差別は、根強いです。それゆえに、通院を遅らせたり、病状を悪化させたりしています。「精神科に通院していると分かると、長期特別研修に行かされるかもしれない」という不安が、それに拍車を加えています。
宮城県教育委員会が、直ちに全教職員(ことに管理職)に対して精神疾患への理解を図る指導を行うことを、私たちは求めます。
2 本人同意がなければ、長期特別研修の研修員にしないこと。
児童生徒への教科指導の際、「意欲・関心」を評価することがあります。それは、児童生徒が「意欲・関心」を持てるような授業設計が求められているということでもあります。無理強いでない教育活動とは、児童生徒自らが活動を進めるという、まさに教育の教育たるところでしょう。「そんなことしたくない」という児童生徒、または「なぜそんなことするの?」と問う児童生徒に、何の返答もなく無理強いすることができるとするならば、その背景には脅しがあるように思えます。
「そんなこと言ってたら怒られるぞ」「少し我慢しなさい」「受験で落ちるぞ」「いいから、言う通りにしなさい」...。自分で納得しないことをさせられるという経験は、誰かに対して同じことをするという連鎖を呼ぶように感じます。話し合い、納得し、そして自ら活動していくという、まさに基本的な生活が、脅かされる不安を、私たちは拭い切れません。
さて、質問状の回答(2 認定について)において、〈本人の同意を明示的に確認する仕組みにはなっておりませんが、研修をより効果的に進めるため、可能な限り本人の理解を得ながら研修を進めるよう努めております。〉とあります。長期特別研修が教職員の「指導力の向上」を目的とするものならば、これは大きな問題であると考えます。〈教員に求められる資質能力に課題があるため、教員としての使命と職務への自覚が不足し、日常的な職務の遂行に支障を来していること等に該当し、児童又は生徒が安心して学校生活を送ることができる学校環境を損なっている〉教職員がいるとするならば、そういう教職員に対してこそ、無理強いでない教育活動をするべきです。
私たちは、長期特別研修制度をどのように改良して行っても、恣意的かつ懲罰的なシステムから免れないと考えています。しかしながら、直ちになくすことをしない場合には、本人同意を絶対の条件とすることを求めます。
3 本人を弁護し得る判定委員の配置をすること。また判定委員会の実態を明らかにすること
私たちが長期特別研修に対して大きな不信感を抱くのは、長期特別研修がどこまで行っても「恣意的」に成らざるを得ないと考えるからです。長期特別研修が必要であるとみなす校長は、その教職員の「研修が必要である」ための記録を行うでしょう。よいことなど記録しないでしょう。市町村教育委員会は、その校長の申し出に疑問などを挟む材料を持たないでしょう。県教育委員会となればなおさらです。このように「研修が必要である」という校長の判断は、そのまま論議検討されることなく、決済されていくのではないでしょうか。しかも、本人の同意も条件とされず、弁明するにも弁護人もなければ、一つの決定が最後まで不変であることが予定されているかのようです。このような「絶対システム」が、長期特別研修に対する不安・脅えを増大させているのです。
私たちは、長期特別研修制度をどのように改良して行っても、恣意的かつ懲罰的なシステムから免れないと考えています。しかしながら、直ちになくすことをしない場合には、判定委員会の構成を公表し、その活動について明らかにすることを求めます。
4 「長期特別研修制度」「優秀・優良教職員表彰制度」を廃止すること。
学校教育活動は、一人のスーパーマンによって、花開くものではありません。いろんな持ち味を持つ教職員が、長い時間を掛けて、児童生徒・保護者・地域の方々と共に、実らせるものです。目に見えた「成長」もありますが、じんわりと心に残る「成長」もあるのです。かつてこの社会では、目に見えるものよりも目に見えないものを、大切にしていたように感じます。人間が人間として関わり合い、失敗しても起き上がり、苦しみを共に乗り越え、喜びを分かち合い、生きていることの喜びを、人として感動してきたように感じます。
しかし、昨今の管理監視競争社会の中、残念なことに人の暮らしは荒んでいます。目に見えた結果だけを、しかも素早く正確に獲得することだけが求められ、緊張と不安と嫉みがまん延しそうです。そして、それが今後より一層広がることを、私たちはくい止めなければならないと考えています。
それゆえ、学校教育現場に不安感を与えている「長期特別研修制度」、不信感をまん延させ仲間意識を削いでいる「優秀・優良教職員表彰制度」の廃止を求めます。そして、目先でない教育の力を信じつつ、全ての教職員が持っている力を発揮できる環境を整えていくことを、求めます。以上
写真は、1.22に松山町散歩したときの1枚。雪道の向こうの太陽です。