昨日へ     2006年02月27日   明日へ

ここのところ、選択的夫婦別姓やジェンダーフリーの活動よりも、「日の丸・君が代」強制反対や「指導力不足」教職員攻撃と闘う活動に時間を使っている僕です。おかげさまで、いろんな人に会います。世界が広がり、とても豊かです。いろんな人がいて、いろんな考え・感じ方があるもんだなあ、人生はまさに旅じゃと感じ入っているこの頃です。忙しかったり、疲れたりしますが、きっとこういうのが「幸せ」なんだろうと、感じています。

さて、先日ある分厚い本を手にしました。私が結局のところ求めているものは「自由」なんです。だから、D・デリンジャーさんに、とても共感しつつ、大切に大切に読んでいるところです。読んでいる本は、これです。

『「アメリカ」が知らないアメリカ〜反戦・非暴力のわが回想〜』 D・デリンジャー著 吉川勇一訳 藤原書店発行 1997年11月初版 6800円

僕としては、とても珍しいことですが、ラインマーカーを引きながら読んでいます。これまでに引いた傍線箇所のほんの幾つかを引用してみましょう。

大人たちは、計画を多すぎるほど立てた。まるで全宇宙を動かしているみたいだった。そして、自分たちの計画よりももっと大きな大自然の計画で邪魔されると不機嫌になった。でも、人生とは、そんな計画だの計画を立てる者などは必要でなく、自然にくりひろげられてゆくものなのではないだろうか。雨が友だちになっていれば、予想通りであろうが不意にであろうが、やって来てくれたことは嬉しいはずだ。それは、別の友だち、青空や太陽が訪ねてきてくれたときに嬉しく思うのと同じだろう。(p32)

森のなかの隔絶されたキャンプで仲間の平和主義者たちと語り合い、瞑想し、祈るために、それまでの態度を撤回するよりは、私が暮らし、活動してきた混乱に満ちた近隣社会のなかにでき得るかぎり長く留まることの方が、正しいと信じる非暴力行動にとって、もっと適切なことだと思えた。(p106)

敵とは、すべての人びとの完全な社会的、経済的平等を否定している一切の制度である。敵とは、われわれがその一部になっている諸制度によって実行されている行為の結果に対する個人的無関心である。(p177)

いかなる世代の者にせよ、あるいはいかなる分類の人間にせよ、それ自体で完全なものなどあり得ないと信ずるにいたったことを、私はいつもはっきりと話すように努めている。年齢、性、人種、性的志向の如何、階級、公的教育の程度、その他人格のさまざまな面で、自分とは異なった人びとがおり、そしてそのことが、私たちのあいだを分裂させるために利用されることが多くあるのだが、私たちすべては、実はそういう自分と異なる人びとからの助けを必要としているのだ。(p245)

この頃ふと頭に浮かんだ言葉は「この星は、メンバー全員でできている」ってこと。階級、格差、不平等...人が不公平に扱われる昨今。本来、どんな町に暮らすどんな人も、みーんな粗末にされてはならないんです。(ほら、別姓だって、きっとそうです)。

理不尽は、人が作ったもの。だから、それらは全て、人が解いたり溶かしたりできるはず。「どうしようもない未来」は、そうしたい何者かによって、演出されます。希望は自分で持たないとね。だれかに持ってもらうんじゃ、きっとそれは「あなたの希望」ではない。

民法改正という具体目標の達成はなかなか大変そうですが、日々の暮らしの中で、おかしいことをおかしいと言い続けること。それを失わないことの大切さを、僕はD・デリンジャーさんから学んでいる思いです。もしよければ(ちょいと高いですが)『「アメリカ」が知らないアメリカ〜反戦・非暴力のわが回想〜』を読んでみてくださいね。(あ、宮城県図書館にはありますよ)

写真は、25日の犬山の猫です。

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