昨日へ     2006年08月07日   明日へ

朝起きて、宿を出て、僕はぽとりぽとりと歩きます。蝉は、既にワシワシと鳴いていて、ちゃっかりと太陽は昇ってしまっているんです。猫はなかなか見当たらず、通勤サラリーマンに平日であることを気付かされます。ああ、8・6こそ記念日・休日でいいのにね。

途中「解放運動 無名戦士之碑〜凍てつく大地にあなたは種子となった」という碑を見つけました。説明を読みました。《この碑は、解放運動のなかばで倒れた先輩諸兄姉を、とこしえに記念し、たたえるためのものです。 この人びとの輝ける遺業をうけつぎ不屈の闘いを顕彰することは、日本の平和と独立、民主主義と人権を守る闘いを励まし、ながく解放の礎えになるであろうという日本国民救援会広島県本部の呼びかけにこたえ、広島県民各階層の絶大な賛同のもとに設置されたものであります。 建設資金は、日本社会党広島県連合会、日本共産党広島県委員会、広島県労働組合会議、民主団体、県内外の労働者、農民、労働組合、県民有志の協力と募金によってなされ、3月18日パリ・コミューンの記念日に着工し、第34回統一メーデーの日に完成したものであります。 1963年5月1日 解放運動無名戦士之碑建設実行委員会》 僕が生まれる2年前のこと。戦後20年は経っていなかった頃。そうか、日本国憲法がない頃から、差別と闘っている人は、そのうねりは続いているんだなぁ。僕は、その中にいるだろうか...。夏の日差しの下、花が生けられていました。

また碑がありました。「原爆犠牲国民学校 教師と子どもの碑」です。色とりどりの千羽鶴。人が一つずつ折った鶴。1枚の紙が、心を表すものになってしまうんだなぁ。

平和公園に寄りました。61年前の朝は、どんなだったろう。朝日を見て、希望を抱いた人も、朝日に照らされた事実に希望を失った人も、きっといたことでしょう。その同じ場所に、僕は今朝いるのでした。原爆ドームの回りには、昨晩の喧騒を感じさせるものはなく、ずっと普通に吹いていたんだよと言わんばかりの夏の風が、夏の花たちを揺らすのでした。

路面電車で広島駅へ。今日の夜の福岡発仙台行の飛行機に乗る予定の僕は、また青春18切符で、とことこと西へ向かいます。朝ご飯は、広島駅の立ちそばで、かけそば。おまけに、三角の御稲荷さんも1個食べました。

山陽本線の電車は、静かな海を眺め、たくさん川を渡りながら、西へ。岩国で降りました。岩国を散策するつもりをしていたのですが、時刻表を見ていて思いつきました。筑豊経由で博多に行くという手があるぞ!って。となると、岩国でゆっくりはしません。ほほっ〜、行けるもんじゃのぉ〜と。柳井で乗り換え。たこちくと缶ビールを買って、徳山に向かいます。窓の外は、夏の空。田んぼの稲は、麦わら帽子を風で飛ばされたときの少女の黒髪。さらさらと歌っていました。

徳山で、またビールを買おうと思いましたが、ちょいと思いとどまり緑の缶の発泡酒。そして、おにぎりちくわと、黄金焼ちくわ、そしてサンドイッチ。みやぎの笹蒲もいいけれど、山口のちくわもいいねぇ!

下関から門司へ。僕は、まずは直方を目指します。コンパクトでおしゃれな電車に乗って、炭鉱の町へ。

直方に降り立つと、それはそれは盛り上がった夏でした。直方を僕は子どもの頃から(蒸気機関車を追いかけていた頃から...30年前)「なおがた」と呼んでいましたが、あらまー「のおがた」って呼ぶんですね。知らなかったー、ごめんなさい。

直方に来たものの、とくにこれと言って、目的地はないんです。いつものように、ぶらぶら歩けばいいんです。どこかに、炭鉱の匂いがしないかな? 猫でもいないかな? 駅前の地図に「石炭記念館」があるじゃないですか! こりゃ行かなくちゃね。線路に沿った道を歩き、途中アジアン雑貨屋さんで、連れ合いぴよさんに猫マグネットのお土産買いました。記念館の場所を聞いたら、すぐそこでした。

線路を渡り、坂を上り、あっ! 石炭記念館を見て、僕は声を出しちゃいましたよ! そして笑ったねっ。だって、去年来たんです。去年来たのに、忘れてまた来ちゃったよ。びっくりだなー。本屋さんで新刊マンガ本見つけて、喜んで買って読んだら、どっかで読んだぞって匂いがして、部屋をごそごそしたら、前に買って読んでいた...みたいな感じ。おまけに、おかしかったのは、今日もまた月曜日ということです。去年は、レンタカーで来たんです。地図見て探してたどり着いたんです。今年も同じように月曜休館なのでした。とりあえず、去年と同じように蒸気機関車の写真だけ撮って、また駅に戻りました。

直方から電車に乗ります。飯塚に向かいます。車窓から、ズリ山の跡と思われるものをたくさん発見します。ああ、筑豊なら「ボタ山」だね。どれもみな緑覆われながら、その不自然な形ゆえ、僕の目に入ってきて、僕の頭の中では、周辺に広がる炭住が浮かび上がるのでした。

飯塚は、降りたらすぐに炭鉱の匂いがしました。駅前の古い高層アパート。錆びた看板が一つ「炭都ビル事務所 二階」。麦わら帽子のお婆さんが、お婆さんより大きな茶色の犬の散歩をしていました。遠くから高校生の笑い声。高校生少年少女、くったくない笑顔が、こっちまで届きます。ゆっくりゆっくり歩く二人連れ。破れた提灯の「飯坂ラーメン」のお店。入ってみました。紅いカウンターには、高校生くらいの男の子3人。ラーメンをすすっていました。僕も、ラーメン400円。いわゆる博多系。いわゆるずっと何年も変わらないんだろう、そんな味・佇まいでした。近くの新天町商店街は、シャッターが締め切られていました。路線バスが通っていきました。「大分坑」行きでした。僕は、目的なく、ぶらぶらと歩きます。小さい橋がありました。1956年に作られたものでした。武田たたみ店さんは、お店をやめてからしばらく経つんだろうなぁ。人間の暮らしがまだ魂として漂っているかのような佇まいでした。ゆっくり歩きながら、歩かないと分からないことってあるなぁと思いました。歩いても分からないこともあるんだけどね。

缶酎ハイを買って、博多行の電車に乗りました。車窓からは、ズリ山跡、そして夕張・清水沢と同じ形の住宅。そうだ、ここから夕張に渡り、炭鉱に入った人もきっといっぱいいたんだろうなぁ。

電車に揺られながら、炭鉱風景を想いながら、考えました。かつて労働争議は、誰かを守るところから始まったのではないだろうか。僕は、教職員評価制度によって誰かを切り捨てるシステムを作らせたくない。だから、抵抗する。抵抗への合流を喚起する。あきらめないで。

おまえがそんなことをしなくていいのだ...と、これまでどれだけの人が言われてきたでしょう。そんな人たちの支援などしなくていい、誰かがしてくれるから、そんな危険なことはするな。それは、意味のないことだ。もう決まったことなのだ。それは単なるわがままだ。そんなことをしても、なんの意味もない。これまで、そんな言葉を何度聞いてきたことでしょう。

そして、何もしないでいる日々が重なって、今があるんですね。僕は、とてもとても「今」を反省しているんです。僕の今は、僕の知り得る限りの歴史の続きとしてあるから、今からできることを、ちゃんとやっていきたいです。間違ったら、直す。間違えもせずに、黙って流されるままにはならない。

夕日を眺める仙台行の飛行機は、すぐに博多の街を立ち、すぐに暗い仙台に着いたのでした。連れ合いぴよさんが、車で迎えに来てくれていました。ありがとうね! 僕の旅は、一つ終わり、それでいて続いているのでした。

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