今日は、ジョゼさんのライブの日です。ライブハウスでのリハ入りは11時でしたが、僕はそれより少し遅れて「enn」に到着しました。別姓を考える会15周年記念企画なので、手元にあった「別姓通信」バックナンバーをかき集めて、デカザックに入れて背負いました。
別姓を考える会は、1991年9月スタートなんです。15年前だから、そうねえ、僕は26歳でした。なんか、へんな感じだなー。
1991年の3月に、できたばかりのエルパーク仙台で、榊原弁護士の夫婦別姓に関わる講演会があったんです。僕は、駆けつけましたよ! 白石から電車に揺られて、向かったんです。その年の2月に連れ合いぴよさんと結婚式を挙げました。まさに手作りのコンパクトな結婚式でした。ここでは詳しく書かないですが、あちこちで書いていることではあるんで、どっか探すと詳しく書いてますよ。講演会のあった3月は、まさに連れ合いぴよさんがせっかく就職した仕事を辞めて、東京から白石に来る頃だったので、講演会のことを知ったときは、興奮しましたねー。うっひゃー!だった。同じような暮らし方をしている仲間に会えるかもしれないという、ドキドキ感は忘れられません。ああ、26歳の青年!
講演会で、「夫婦別姓に関わるサークルなどを発足するとき、連絡をしますか」って用紙が回覧されて、僕は白石市の住所を書いたんです。藁をもつかむ感覚、少しあったな。そして、発足の集まりを持ちますと、葉書をもらったのは、いつだったんだろう。もう白石での二人暮らしを始めていた頃ですね。当時の学校には、大学入学同期で、それでいて就職1年先輩の友だちがいたんです。彼女が「私は、別姓をしないけれど、私の子どもの頃は、そうなっていてほしいな」と、白石駅の一番ホームで話した記憶があるんだけど、それって、発足のときだったのかなー。
発足で行ったエルパーク仙台の和室。僕が男性であるだけで「おー!」って感じでしたね。しかも若かったしね。会の名前をどうしようかとか、いろいろ話し合いました。僕は「お便りは作りましょう」と提案したんです。学生時代からミニコミ作ることが、僕の活動のメインでしたから、今思うに、それはとても自然な発想でした。けれども、それはとても大きな意味を持ったなーと、今26歳の僕を褒めますよ。定期的な集まりと、「別姓通信」で、別姓を考える会は続いてきたのだと思います。最初は、学生時代にミニコミや卒論を書くために買ったサンワードという三洋のワープロで作った「別姓通信」でした。切り貼りして作りました。何度も家からセブンイレブンに行き、コピーして、また切り貼りでした。表紙は、ちゃんと「表紙」にするのが僕の流儀で、それは今も続いています。あの頃の表紙は、子どもの絵で飾っていました。子どもを描いた絵じゃなくて、子どもに描いてもらった絵です。これが、いい味なんですなー。そういうのって、今では珍しくないように感じますが、「別姓通信」が先駆け的だったんじゃないかなーなんて、かいかぶること、ちょっぴりありますなー。そんでもって、その頃反転ひらがなを書いていた子たち、15周年となると、もう大人なんですよ。ぴっくりですよね。
別姓を考える会は、「いろんな生き方あっていい」を合い言葉にしています。合い言葉歴15年です。別姓を考える会は、選択的夫婦別姓の法制化を目指しています。実のところ、10年前くらいから別姓を考える会をやめたくて仕方ないんです。もういい加減、民法改正しようぜっ!って感じですね。疲れたんですね。でも、状況は15年前からより一層困難な様子になっています。困ったものです。かつては、戸籍制度をどうするかという議論もあったのに、この頃では「民法改正」の鋭さが鈍ってきています。「それで自由になったのかい」という歌がありましたが、何のための選択的夫婦別姓法制化なのか、改めて問い直す必要を感じるこの頃です。私たちの生き方は、誰かに決められているわけじゃないんだよ!という自覚を持ちたいものです。私たちは、自由なんです。私たちは、個人として尊重されているんです。
前振り長くて、ごめんなさい。ジョゼさんのライブ報告を書きましょう。
正直言って、観客最悪と、予想していました。覚悟していました。僕が、あれこれ忙しく広報活動に専念できなかったという反省があります。収益以前に、ブラジルから来ているジョゼさんをがっかりさせたくない気持ちが優先していて、それゆえに一層重苦しい感じでした。僕は、カメラ係だけで行こうと思いつつ、受付も引き受け、いい感じでのライブをいまさらながらに作りたいと思いました。
少しずつ、お客さんが来ます。知っている方、知らない方。みなさんに、感謝です。いつも戦争反対、そして教職員評価制度に関わる僕の行動にも、いつも参加してくださっているOさんが来てくださって、僕は少し泣きそうだったよ。恣意的な長期特別研修をなくす会の仲間も来てくれました。別姓を考える会の懐かしい仲間も来てくれました。来れないからと、花やメッセージが届きました。ああ、感謝です。オーディエンスは、老若男女の30名でした。
ジョゼさんの歌。ボサノバやサンバと、ジャンル分けするものではないのだと感じました。リズムや言語は置いておいて、アイヌや琉球の「歌」を思いましたよ。口承の言葉としての歌ですね。ワープロで印字されない言葉。いつも直筆な感じ。マシンやシステムに服していない、しゃきっとした歌だ。だから、僕はとてもとても感動だったんですよ。パーカッションで、途中からステージに上がり、ずっとジョゼさんをサポートし続けてくださった方には、超感謝ですなー。けんちん汁の皆さん、とっても感謝! 今度呑みたいですよ!
ジョゼさんライブが終わり、交流会までの時間、僕はタワレコードに行きました。ライブ後ゆえ、音楽系に火がついた感じです。FLAT EARTH SOCIETYと、THE GRATEFUL DEAD、そして菊地成孔のCDを買いました。
さて、ライブ後の交流会です。ギタリストとシンガーのカップルとお話し、そして歌も聴きました。ジョゼさんとも、いろんな話をしました。ジョゼさんのCDは「SABEDORIA POPULAR」です。邦訳は「時間(とき)の河」。でも、直訳は「民衆の知恵」になることを聞きました。なるほど! 今回のライブちらしは、僕が作ったものですが、その中に載せたジョゼさん紹介は、次のようなものでした。〈JOSE PINHEIRO ジョゼ・ピニエィロ(ミュージシャン/異文化交流家)ブラジル、アマゾン河口の町ベレン市生まれ。アマゾンとブラジル北東部の自然と文化の中で育つ。1992年のリオの環境サミットでは、日本のメディアでの現地コーディネーターとして活躍。1996年「牛乳パック・リサイクル全国大会」のメイン・ステージへの参加。1998 年からほぼ毎年来日し、日本ツアーを敢行。2003 年は横浜市緑区共催の「創造と森の声」に招聘。同年、神奈川で行われた「PEACE VOICES CONCERT〜平和の声が聞こえますか?」に出演。2005年3月ブラジルでCDを録音しパートナーのユミと来日。全国ツアーを行う。現在、家族と共にブラジル北東部のフォルタレーザ市に在住。2006年6月より来日。横浜を皮切りに全国ツアー中〉
ジョゼさんとの会話で、たくさん意気投合しましたが、「異文化・口承」というあたりが、ポイントでしたね。
僕は、「情報」なんかになっちまったものは、信じないんです。所詮情報に過ぎない。そこには、温度も音程も色も匂いもない。「利用」し・されてしまうものでしかないような佇まいがあります。「使い捨てられ」てしまうもの。ロボットでも作れるのが「情報」。でもね、「手紙」は「情報」じゃないんです。人間にしか作ることができなくて、それは「商品」のように量産するものでもないんです。貨幣に置き換えるのも、難しいんだな。僕は、こんなふうにMacのキーボードを叩いて、デジタルな発信をしているんだけど、やっぱり筆ペンあたりが一番しっくりするんだな。同じものは、なかなか作れない。というか、ありえない。そういう、人と人とのコピーできない関わりを信じているし、あえていうなら、それしか信じていません。
ジョゼさんと話していて、口承で伝わるものへの「熱」に、すごく共感しました。人が、いろんな経験を重ね、その人の生き様を重ねて、少しずつ変わって行くいくもの。義務としてではなく、尊敬するがゆえに、死なないもの。それこそが「知恵」なのだと、共感しました。「知恵」は、裏技じゃない。「知恵」は、歴史です。「知恵」は、テクニックじゃない。「知恵」は、先人への尊敬です。
僕は、戸籍制度や男尊女卑になる封建制度・慣習を、変えるべきだと思っています。それは、一面では「合理的」に体制を維持していくのかもしれないけれど、全ての人が大切にされるわけではないもの。「そういうことになっているのだ」という押しつけだけになってしまうもの。しかしながら、矛盾するように感じられるかもしれませんが、僕は先人の生き様を全部受け入れたい。捨て去って、新しいものを作ることはできません。先人の失敗にも成功にも、学ばなければならないんです。
交流会の二次会で、ジョゼさんと在日外国人の子どもたちの話になり、僕はジョゼさんへの共感を深めました。日本で生まれ育ったブラジルの子どもたち。彼らが、異文化交流のジョゼさんのライブ前に見せてくれたのが、いわゆるアメリカのラップで彼はとても当惑したことを話していました。なるほど! 「違い」とは「誇り」で、それが「同化」や誤解で、伝えられてはならないのだと、僕にも心が少し痛くなりつつ、感じられました。ぜひ多くの方に、ジョゼさんと会ってほしいと思っていますよ。
交流会では、人生の先輩と釣りの話や学校の話もしました。若者とも語らいました。ああ、出会いに感謝です。また、なんつーか、連れ合いぴよさんを惚れ直しの場面、あったかな...。別姓を考える会は、これからいつまで続くものか分かりませんが、これからもたくさんの人と出会い、世界を広げたいと思いました。充実の一日でした。