昨日へ     2006年09月19日   明日へ

あかちゃんが泣く声って、泣き方によっては辛い気持ちになりますよね。でも、場合によっては微笑ましくもある。僕の回りには、あかちゃんはいません。あかちゃんと一緒に暮らしたのは、妹が産まれたときだから、40年近く昔のこと。ああ、そのときは、自らもあかちゃんであった。

あかちゃんの声は、誰にも管理できません。あかちゃん天下です。飛行機の中なんかじゃ、一緒にいる人たちは「他の人に迷惑掛けている!」と必死ですが、ドンマイです。みんな、昔はあかちゃんだったんです、そんときのことなんか覚えていないけど。もしもあかちゃんにスイッチが付いていて、泣くのをON・OFFできたら、きっと助かるって人、いるだろうな。でも、それはナシです。そんなことになったら、人間に未来はない! 人間は、生き物。人間は、自然の中で誕生し、そして生きる。だから、あかちゃんの泣き声は、その証し。まさに自由なんです。

同じことが、大人にも言えます。おしっこです。おしっこを我慢するのには、限界があります。たぶん、みんな知っていることですよね。そしてもらしてしまうことは、とても恥ずかしいこと。これも、みんな知っていること。おしっこをするスケジュールって、決まっていません。自分の体なのに、なかなかコントロールできるものじゃない。だから、他の人ならなおさらコントロールできるはず、ないんです。おしっこしたくなったら、トイレに行く。これって、人間の権利として保障されて当然のことです。

ところが、人間を「部品」や「材料」と考える人たちもいて、そういう人たちは、人がおしっこをすることを許しません。決まった時間に済ませなさいというわけです。確かにある程度は、ルールがあるかもしれない。けれども、不測の事態だって、ありますよね! うんこなら尚更のことです。おしっこくらい我慢しないで生きていきたいと、僕はとてもとても思うのですが、そうではないことを「改革」と称して「よいこと」とする考え方が広がっていて、僕は怖いです。

企業に派遣されて仕事をしている人、監視され理不尽な評価・処遇を恐れる人、介護が必要なのに保障されない人、いろんなところで、みんなきっとおしっこを我慢している。おしっこ以外のことも我慢している。おしっこを我慢したくない僕は、この事態が我慢できません。

人間が人間として生きていくためには、誰かの都合に沿わないこともきっとある。でも、人間は、この星に自然な形で生を受けているので、やっぱり自然に生きるべき。そんなことを考えるこの頃です。

写真は、8/04の萩での一枚です。

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