朝の電車で仙台に向かいました。
昨日ある人に電話をもらい、仙台市市民活動サポートセンターに行ってほしいと言われました。きっと会議だろうと行ってみたら、ミニコミの座談会でした。顔ぶれは知っている人ばかりでしたが、ちょっと驚きでした。「今、学校は...」というテーマでした。あんまりしゃべらないようにしていました。でも「いじめ問題」のことが話題になると、しゃべらないわけにはいかないですね。要旨は簡単です。
・いじめ評論はいらない。
・きれい事の積み重ねはいらない。
・今の自分が理不尽にどのくらい向かえるか。
・子どもは、大人を見て学ぶ。システムという装置そのものに問題があるのに、Aシステムで効果があがらなかったからと、Bシステムに替えたところで、要はシステムという檻の中。それでは、救われないのです。解放されないのです。下剤と下痢止めを一緒に飲んだり、交互に飲んだり...。そんなことより、薬飲まないで、しばし休むといいんです。人は、なぜせっかちなのでしょう。せっかち競争をまだ続けるつもりなのでしょうか。「即戦力」なんていう、安易な考え方は、人の経験・歴史を踏みにじること。ああ、人がどんどん薄くなってしまいます。スリムって? いやいや、自然のままがいいんです。
昼に仙台市市民活動サポートセンターを出ました。フォーラス前で、民主党の国会議員が街頭アピールをしていました。僕は、面識のある議員に声を掛けました。教育基本法の改悪だけは絶対に通さないでくださいね! 僕のことを知っている方も、覚えていない方もいましたが、議員になった方って、どの政党でも、なる前のほうが魅力的だったなーと、いつも思ってしまいます。なぜなんだろう。でもね、民主党には頑張ってもらわないと大変です!
通りすがりのラーメン屋さんで、ラーメンをそそくさと食べて、地下鉄に乗りました。今度は「三戸学さん講演会(共育を考える会20周年記念)13:30- 16:00 旭ケ丘青年文化センターエッグホール 主催:共育を考える会」です。
三戸学さんは、秋田の中学校の数学の教員です。「障害」を持っている三戸さん。講演を聞くのは初めて。楽しみにしていたんです。講演を聞きながらのメモは、こんな感じです。
・「組織の中にいるのに」
けれど、それが何よりも三戸さんの存在意義。
外からの評論ではない、現場での実践。その大きさ。可能性。
・「あなたが働きやすい職場は、他の教師も働きやすい職場だ。
そして、子どもたちにも暮らしやすい学校だ」というアメリカで聴いた言葉。
「だから、私の視点をこれからもずっと」という三戸さんの「私」。
県教委からの要請や、研究者からの助言なんかじゃなくて、「私」。ここに自信あり。
・「生まれかわっても、今の自分でありたい」という三戸さん。
「障害」を持つ友だちの介護を続けてて思うのは、全部ひっくるめてその人ってこと。
それは、「障害」云々に限ったことではなないはずなのだが、教育者・医療者・研究者は、
とかく「障害」を治そうとする。それは、美容形成外科を標準化するみたいな感じ。
・「第一差別者は親かも」という三戸さん。
映画「さよならCP」を思い出す。親(とくに母親)、家族、血縁...に限定されない社会。
ふんわりと、いいかげんで、おだやかで、きれいごとじゃなくって、
雑菌いっぱい、清潔100%じゃない社会だといいな。
管理監視規則で「安定」や「幸せ」は、もたらされないから。
・「生死をさまよったみたいです」という三戸さん。
こういうのって、自分で覚えていないこと。お母さんから聞いたんですね。
ということは、お母さんにとっては、ずっと覚えていること。
なんてったって、自分の経験だったんだからねー。
・「6歳の選択で、人生が決まるかも。なぜそうなのか」という三戸さん。
この問いにドライに答えるなら、こんな感じだろうか。
「なぜなら、子どものための社会ではなく、社会のための子どもなのだから」。
これって、きっと本来ではない。
「この子のことを思って」というよく聞くセリフは、
現状システムとしての社会に「この子」を合わせるための方便に過ぎないから。
「6歳の選択」でピンチを作らないように、小学校教員は闘うんだなっ。
・ことばの記録・記憶は大切だと思った。
「なんかあったら、どうするの」
「ケガでもしたら、どうするの」
「あなたを待っている先生方のことを考えなさい」
「音読大変だから、やらなくていいよ」
「差別をしていると思っていない」
疑問文なんだけど、命令していることばたち。
あえて答えると、当惑する大人たち。
「なんかあったら、どうするの」「そのとき考えましょう」
「ケガでもしたら、どうするの」「治せばいいさ」
「あなたを待っている先生方のことを考えなさい」「はい考えたよ」
「音読大変だから、やらなくていいよ」「先生も大変なことやらなくていいよ」
「差別をしていると思っていない」「私には分かります。あなたは思ってます」
・「自立は人の力を借りて生きていくこと。ヘルプミーと言えるようになった一人暮らし」という三戸さん。
「自立」に終着はないと思った。これは「成長」なんかに似てる。
大人もおんなじ。みんな一緒。
「幸せ」とか「平和」も同じ感じ。
みんなが果てしなく求め続ける。ここでおしまいってない。
「完成された人」「できあがっちゃった人」っていない。メモは、こんな感じでした。三戸さんに送ったメールには、こういうことばも付けました。
「障害」の話って、とかく「きれい事」っぽかったり、「ひたむき・頑張る!」って感じや、「涙なくては...」ってこと、多いです。三戸さんは、そのまんまって感じで、とてもかっこよかったです。偉そうじゃなくて、可哀想っぽくなくて、真面目過ぎでなくて、それでいて、体張ってる!って感じで、かっこいいっす! 私も、教員の仕事をしているわけですが、全身晒して、教員仕事してます。間違うのも、普通っぽくないのも、へんてこなのも、やり過ぎなのも、全部人生ひっくるめてオープンなので、きっと、子どもも大人も、何かしら考えたり感じたりするきっかけになることでしょう。そして、オープンに晒している分だけ、嘘付かない(付けない)ことになり、信頼されたりするんだと思います。そんな私としては、三戸さんの講演は...というか、生き様は「おっ、いいぞ!」って感じなのです。失礼承知で言うならば、あっ似たような人いたっ!って気持ちになったんです。
講演会を終えて、ある女性に声を掛けられました。その方は数年前(分かるんですが一応伏せますね)に共育を考える会主催の「市民による就学相談」に参加された方でした。子どもが「障害」を持っていて養護学校に行くとかないと思って「市民による就学相談」に参加したんだそうです。そこで僕の話を聞き、地域の普通学校を選択したという方でした。大変なことはあるとのことでしたが、地域の学校を選んでよかったんです!とお話されていました。なんか...感動しました。卒業生と話している感覚の、もっとドラマチックって感じ。思い掛けなかったから尚更。もう一方の方もそうでした。こちらこそ感謝です。そして、こう言うってくださる方に恥ずかしくない生きかたをしていかなくてはならないと、肝に銘じたのでした。
交流会には出ず、また地下鉄で仙台に戻ります。今度は「新たな勤務評定『教職員評価制度』を許さない会 学習会 17:00- 20:00 みやぎ婦人会館 第三会議室 主催:新たな勤務評定『教職員評価制度』を許さない会」です。レジュメを用意していなかったので、地下鉄を降りたエルパーク仙台で、筆ペンで書いてよしとしました。途中のコンビニでコピーして、みやぎ婦人会館に向かいました。参加者は少なかったものの、顔を合わせての会議はいつも有意義です。教職員評価制度の問題点について、全国の状況について、学習し、今後の活動計画を立てました。
終了したら、すっかり夜も夜! どうしようかと思いましたが、駅前の焼き鳥屋に寄って、それを夕飯ということにして、深夜に帰宅したのでした。ああ、今日も長かったわい。
写真は、6日の雲梯です。