「自由民権」という言葉を、よくよく考えています。いわゆる歴史上の出来事とか、思想とか、運動としてではなくて、僕版「自由民権」ってところ。
「自由」は、誰かに支配されないこと。自分の生き方を自分で決めていくということ。「自由」って、僕的には人間が生きることにおいて基本。「平和」という言葉よりも「自由」という言葉のほうが、僕にはリアル。
「民」は、「民衆」の民。「市民」って言うとなんか背広着ていそうな感じがするんだな、実のところ。インテリっぽくって、あえてこういうときはしっくりこないです。「人民」でもいい。でも、人民って言うと、毛沢東っぽい印象。間違っていないんだけど、なんか使い難い。自由ってイメージから、ちょっと離れている感じがするのは、やっぱり毛沢東のイメージからかなー。ああ、人民服だっ。今、気付いた。あの制服のイメージがあるんだな。悪くないんだけど、僕は着たくないです。誰かに着せたくないです。そこんところにいくと「民衆」は、足並みそろってなくて、整列していなくて、理論よりも人情って印象。金持ちはいない感じ。だから、僕にとって「民」は「民衆」がしっくり来るんです。「衆」って言うのも、ニシン番屋の「ヤン衆」という使われ方や、内地から来た人たちの出身地ごとに「秋田衆」という使われ方がされていて、それはときに差別的な使われ方もしていたかもしれないけど、なんかアナーキーな匂いがして、好ましかった。「自由」な「民」って感じ。
「権」は、権利だね。これは言うまでもないことです。権利って言う考え方は、「民」にとっては、とても大きなもの。「そうしていいんだよ」「それが、あたりまえなんだよ」という、「自由」のための考え方。理論というよりも、教えに近かったかもしれないね。支配する側にとっては禁じ封していたものだったに違いない。それを、解き放つものとしての「権利」。「権利」は、いつも奪われる脅威にあり、「権利」はいつも武器を持たぬ者にとって日々闘い取っていかなければならないもの。安定した「権利」って、実社会の中では難しい。こと、民衆にとっては。
さて、2007年の世界を見回すと、まさに「自由民権」の旗を揚げなきゃいかんぞ!って感じです。「自由」は、自由競争などという殺し合いの自由などではなく、「民」は「官から民へ」などという政府の無責任と金持ちの利権争いに使われるものでもなく、「権」は権力者に使わせては決してならないもの。そんなことを思いながら、これを行動に生かしていくんだなって、心に誓っています。
写真は、今日の教室での1枚。百人一首の木札でドミノ倒しを楽しんだんです。