今朝、久しぶりに夢を見ました。
恐ろしい仮面の人がたくさん歩いていて、恐ろしい。中古屋さん。緑色のザックが壁に掛かっている。中を見たら、御祝儀袋。その中に一万円札。ザックがいくらなのかは、分からない。他人の家か、自分の部屋か、分からない。本棚を移動させる。とても軽いのが、驚き。本当は、北海道を皮切りに10日余りの長旅出発の前日。いろいろと準備することがあるのですが、Twitterのスパムメールに引っかかってしまって、大変。あちこち、ごめんなさい。僕から発信ということで、スパムメールが届けられているようです。僕のところに来たものを開いちゃいました。それゆえの拡散だったようです。怪しいものは開かない。鉄則ですね。ごめんなさい発信と、開かないでください発信を続けますが、スパムに敵わない状況。ごめんなさいです。懐かしい子から葉書が届いたので返信を書きました。手紙って、心運びますね。Rちゃん、とても嬉しかったよ。ありがとう。
今日は、宮城県立美術館で一人研修(承認研修)の日。電車とバスとで出かけました。仙台駅のホームで黒石つゆ焼きそばを食べました。なるほどねって感じでした。
今日から始まる絵本原画展は、とてもよかったです。たくさんの絵を見ましたが、幾つかメモしました。こんな感じです。
「大きなかぶ」佐藤忠良
・文字なしだと絵をよく見る。
・こんな表情だったんだ。
・途方に暮れる場面、見ていなかった。
・読むと(とくに子どもの音読では)速いけれど、長い時間が掛かっている印象。ゆったり感。「そらいろのたね」大村百合子
・左手の添え方。やさしく丁寧。「しょうぼうじどうしゃじぷた」山本忠敬
・着色するところ。しないところ。
・ペンを入れるところ。入れないところ。
・水彩でない力。「ちょうちんあんこう」なかのひろたか
・福音館に持ち込み。「クリスマスがせめてくる」小野かおる
・こんな絵をさらっと描きたい。「ごろごろにゃーん」長新太
・空の線、いい感じ。
・こんなに自由で、ダイナミックだったっけ。「はじめてのおつかい」林明子
・横長の空間(どれも)。
・後ろ姿ゆえの語るもの。
・映画1本分。
・空がきれい。
・息が白い? 季節は?「とんとんとめてくださいな」小出保子
・こういう人の暮らす時代。現代との距離。
・「ふるさと」考。「だいちゃんとうみ」太田大八
・暗い漁村と白い海。
・「めんどうくさい」がない便利でない時代。「まほうのえのぐ」林明子
・ぐりぐらが小さい。
常設展を見に行ったら、ちょうど齋正弘先生が美術専攻の学生に鑑賞の時間を持っているようだったので、傍らで聴きました。「自分の感想は自分のものだと、言えるようにいつかなる」という言葉が印象的です。常設展で見た松本竣介は、意外と大きかったです。三岸好太郎の「オーケストラ」も、思ったより大きかったです。黄色を後から付けたか、最初から狙っていたか、三岸さんに聞きたいと思いました。
佐藤忠良記念館に入りました。ここのところ、彫塑に関心があるのですが、何といっても目をとめたのは、現代美術社の図工・美術の教科書です。佐藤忠良さんの文章に感動し、僕はメモ帳に写すことにしました。途中で、学芸員さんが印刷したものがありますよと、持ってきてくださいました。嬉しかった! ありがとうございました。見終わってから、4枚余計にもらいました。なぜなら、たくさんの人に読んでほしいと思ったからです。
「この本を読む人へ」佐藤忠良
図画工作の時間は、じょうずに絵をかいたり、ものを作ったりするのが、めあてではありません。
じょうずにかこうとするよりも、見たり考えたりしたことを、自分でかんじたとおりにかくことが大切です。
しんけんに、ものを作りつづけていると、じょうずになるだけでなく、人としてのかんじかたも、そだちます。
このくりかえしのなかで、しぜんの大きさがわかり、どんな人にならなければならないかが、わかってきます。
これがめあてです。
「美術を学ぶ人へ」佐藤忠良
美術を学ぶ前に、私が日ごろ思っていることを、みなさんにお話します。というのは、みなさんは、自分のすることの意味ーーなぜ美術を学ぶのかという意味を、きっと知りたがっているだろうと思うからです。
私が考えてほしいというのは、科学と芸術のちがいと、その関係についてです。
みなさんは、すでにいろいろなことを知っているでしょうし、またこれからも学ぶでしょう。それらの知識は、おおむね科学と呼ばれるものです。科学というのは、だれもがそうだと認められるものです。
科学は、理科や数学のように自然科学と呼ばれるものだけではありません。歴史や地理のように社会科学と呼ばれるものもあります。
これらの科学をもとに発達した科学技術が、私たちの日常生活の環境を変えていきます。
ただ、私たちの生活は、事実を知るだけでは成り立ちません。好きだとかきらいだとか、美しいとかみにくいとか、ものに対して感ずる心があります。
これは、誰もが同じに感ずるものではありません。しかし、こういった感ずる心は、人間が生きていくのにとても大切なものです。だれもが認める知識と同じように、どうしても必要なものです。
詩や音楽や演劇ーー芸術は、こうした心が生みだしたものだといえましょう。
この芸術というものは、科学技術とちがって、環境を変えることはできないものです。
しかし、その環境に対する心を変えることはできるのです。詩や絵に感動した心は、環境にふりまわされるのではなく、自主的に環境に対面でくるようになるのです。
ものを変えることのできないものなど、役に立たないむだなものだと思っている人もいるでしょう。
ところが、この直接役に立たないものが、心のビタミンのようなもので、しらずしらずのうちに、私たちの心のなかで蓄積されて、感ずる心を育てるのです。
人間が生きていくためには、知ることが大切です。同じように、感ずることが大事です。
私は、みなさんの一人一人に、ほんとうの喜び、悲しみ、怒りがどんなものかがわかる人間になってもらいたいのです。
美術をしんけんに学んでください。しんけんに学ばないと、感ずる心は育たないのです。
「この本を読む人へ」佐藤忠良
この本をはじめて手にした人は、美術の教科書としては文字数が多すぎると思うかも知れない。
実は、ここのところに、この本をつくった者の願望が端的に表れている。
わたしたちは、美術を静止的なものとしてとらえていない。変化してやまないものと見ている、と言ってもよい。また、当然のことだが、その変化しつづける美術の制作にあたっている人間もまた、変貌しつづけている、と考えている。
美術や人間の変化というと、時代が移り変わったり、年齢を重ねたりすると自然が変わっていくように感じられるかもしれないが、わたしたちは、そうは考えていない。自然に変わるどころか、自覚的に人生を歩んでいる人は、自分をつくり変える努力を重ねて生きていっている、とみている。
なぜこうした努力を重ねるかというと、自由な人間になるためである。
自由な人間というのは、偏見や権威に惑わされず、真理や美に対して直面し、勇気をもってそれを吸収できる知性と感性をそなえた人間である。生まれたままの自然児が自由な人間なのではなくて、ほんとうの知性や感性を努力の末に獲得した人間が、自由なのである。
作品は、作者の生き方の投影である。モデルA、モデルBの作品は、自画像A、自画像Bと言い替えてもおかしくない。ただ、作品は作者の投影であるにとどまっていない。作品が一人歩きし始めるときがある。そして、作者の手に負えなくなり、やがて作者の生き方を変えさせるほど、作者に迫ってくるものだ。
ものをつくるということは、こういうことだと思う。
自分が、どう人の目に映るか、どんなふうに思われるか、ということが生き方の根本にあるようでは、人の心を動かすものはつくれない。
どう映ろうと、どう思われようと、これが自分なのだ、という気持ちが必要である。
なぜならば、他人の目にどう映るかに気をとられているうちは、自分自身に対して、自分が自然でなくなっているからだ。
志賀直哉が、飛鳥・奈良の美術写真集の選を依頼されたとき、関西に住んで、二年にわたり、ものを見て歩いて選んだ。大正十五年のことである。
このときの選について、志賀直哉は書いている。
「選は総て私の役目であった。選ぶ標準はその物によって如何に自分の心が震い動かされたかということにある。」
この姿勢には、学ぶべき点がある。
優れた感性を身につけた人でも、ものを見るとき、ちょっと見ででっちあげるのではなく、その場所に住んで生活の原点に立ち、心の目で見ようとしていることだ。
感性を人間にそなわっている属性のように思っている人がいるが、わたしは、違う、と思う。
感性は、放っておけば鈍ってしまう。学問と同じように、努力して獲得するものだ。獲得の方法を吟味して、努力を積まなければならない。
ものを知るだけでなく、いろいろなことを感じるために、仮面をかぶった人生から自分を解き放つために、人間は努力して自分を変えなければならない。
心にびしっと入りました。見通しを示された気もしました。間違いだらけの僕の人生ですが、間違いだけではないよと、ささやかれた気持ちになりました。ああ、今日、美術館に来てよかった。佐藤忠良さんがいてよかった。亡くなられましたが、あなたの示すものは、未来永劫人々を照らすでしょう。
美術館を出て、北仙台経由で、帰りました。明日は、旅に出る日。旅支度は、大好きなひととき。あれこれと期待と不安に胸を膨らませるのでした。
写真は、今日の仙台での1枚。バスの中からモノクロで撮ったものです。