2012.03.02
今朝の空。いやはや学期末。去年以前とは違う日々。いろいろ困難もありますが、いろいろ幸せの芽もでているはず。広い視野持って歩みましょう! 今日は、5年図工で石膏デッサンをしました。線ではなくて面で描くというもの。なかなかいい感じでした。いろいろチャレンジするものですな。
本日も超過勤務。前任校の「一年遅れの卒業祝う会」のために写真プレゼントまとめたかったけど、無理みたい。残念。ごめんなさい。明日は、矢本の仮設住宅・学習支援。久しぶりにゆっくりの朝にしよう。なによりの贅沢。
「王様の耳はロバの耳!」と、 壺の中に叫んでも、 壺の外では、 何も変わらない。 壺の中も変わらない。 次なるアクション。
2012.03.03
障子紙幟製作風景。銀座から六本木。レストランの2階。黒い木壁。テーブルを囲んで食事。ジャニーズ事務所の2人話聞くのが上手。豪勢じゃなくて美味しい料理。2人が帰って店の人と飲む。テキーラ独特な飲み方。チーズとお湯を用意。みんなに振る舞って火を灯す。時計を見ると10時半。今日中に帰れない。電車は迫っている。穏やかな老人が、蒸気機関車の話をする。8620ではなく8720なんだよ。乗り込んだ客車。後ろの席に尾行の私服警官。カメラのレバーがモータードライブに接続するものだと気付く。メモ帳が飛んで天井に引っかかる。手を伸ばすとピストルに気がつかれる。夜の道。知らない街。大きな道路渡る。おもちゃのピストル。拾ってみるととても軽い。引き金で銃声。多賀城の交番前。警察が出動。ズボンの右側ポケットに入れる。駅に向かう径。味ごとに違う麺屋は行列。改札を通ってから長い階段を昇りホームを走り北側の端で線路を渡って向かい側ホームへという夢。
久しぶりに幟用障子紙お絵描き。明日着色することにしましょう。3/11用ということで。
「子どもたちを守る」って、今一瞬のことではありません。守り続けるということ。今の子どもが大人になって、次なる子どもたちを守り続けられるよう育むこと。2011年をこの列島で過ごしている大人たちに課せられたこと。放射能の知識も、事故の歴史も、伝え続ける責任。
震災後しばらくテレビを見られない環境にあった。移動手段も限定され、通信手段も細かった。仲間が亡くなっているだろうと悲しみ、駆けつけたいあちこちに行けないことに苦しんだ。いつまでこの日々が続くのか、雪降る中、共同井戸に並びながら、 ため息ついた。ポポポンは見たくない。
瓦礫なくなったほうがよい。しかし何よりの急務は雇用の確保。農業・畜産業・漁業の復興。その前提としての放射能汚染除去。放射性物質は消すことができない。今以上に拡散させないこと。瓦礫全国拡散は不安の拡散。放射能ないところに「あるかもしれない」を運ぶ必要なし。
2012.03.04
つるし雛作りの記念写真。今日は、涌谷親子ふれあい映画祭の日です。 大和優雅監督映画「つるしびな」の上映会と、それに先立つつるし雛制作体験企画のスタッフとしての今日なんです。箟岳を越えて会場の公民館に行きました。僕は、基本的にカメラマン仕事ですが、学校教員ゆえに子どもたちへのあれこれ支援をするんです。おしゃべりしたり、やる気出させたり。お隣の小学校のみんなといろんなことおしゃべりして、とても有意義でした。ありがとうございました。映画上映している間に、撮った写真を音楽付きスライドショーDVDに焼きました。チーム暁の活動です。限られた時間に40数枚の写真を選んで、どんな順番に映すかを編集する作業には随分慣れました。映画を観ることはできなかったのですが、成就感ありますね。ああ、充実だった。感謝感謝。
涌谷親子ふれあい映画祭から帰宅して、障子紙幟の着色をしました。ひとまずほっとしましたな。
2012.03.07
AKB!誰かの記録したものによって、自分の記憶が上書き消去されないよう、自分のことを語ること。伝えること。2011年3月以降、その思いは強まるばかり。テレビで流れる状況は全てではない。私の見たもの聞こえたもの。あなたのあの日あの気持ち。人類人数分の記憶、記録。毎日という歴史。
facebookは、押入れだと思っていたところがステージの入り口だったり、呟く独り言のつもりが新聞一面飾ったり、漢字変換するつもりが発信その都度しちゃったりで、まだ慣れません。ちょいと怖いくらい。使いこなすには失敗も必要なのかもしれませんが。ツイッターのリストも使えていませんなー
うわっつらの言葉散りばめたり、 人の話に耳傾けずマイク握り続けたり、 聞きかじった切れ端で真実でっち上げたり、 しないで生きていく。 一人の私、一人分しか力なし。 その事実こそが この微力感こそが 誰かと繋がろうという 太古からの営みに繋がるのだ。 小さな勇気の灯火。
批判はするけど悪口言わない。 残り物ならみんなで分けよう。 伝わる言葉がなかなか見つからない。 だけど、 独りぼっちでもその道行こう。 …12月に歌った 「全ての子どもに青春を」の 2番の出だし。
2012.03.08
一昨日の夕空。その古くて狭い街に僕は長く滞在しているから白い石橋を渡ってT字路の一方通行を逆に行くと、馴染みの猫たち寄ってくる。オレンジ色の街灯。車が入れないその奥でおじいちゃん一人暮らし。共同便所の共同流し。一間の部屋に図書館から借りてきた足利尊氏の本。こじんまりとした幸せ。という夢。
文字を持ったヒト。 文字に右往左往。 理解と誤解の狭間を、 測る単位なし。
即座に分かった気になる。 噛まずに飲み込む。 アイコンだけで承知する。 かたや、 理解なんかできないと見ることもしない。 予め決めた通り以外に道は存在しない。 ゆるやかな時。 柔らかな皮膚。 雑木林で耳を澄ませよう。
放射能拡散を止めるべきと表明している全ての政党・党派・グループ・〜会・〜NPO…に所属する皆さん。みんなで何とかしなくちゃいけない。まず、悪口やめましょう。悪口やめても、あなたの存在は変わらないです。
大切なものは目に見えない…と、大貫妙子さんや矢野顕子さん、谷川俊太郎さんが歌ったり語ったりしていたころが懐かしいです。連想ゲーム「目に見えない」で「放射能!」ってありでしょ。目に見えないものを、そこにあるかないかを問うたとき、人は応える人そのものを考えざるをえないのです。
劣等感を持たせてしまう大人の罪。至らないのは、当然。失敗もする。そこで経験を豊かにする。問題は、蔑む大人の価値観。競争、勝者敗者を作っている大人。自分が勝った経験をして、そこで鼻高くした人たち、ちょっと信頼できない。という私、小学校教員。いやはや苦労すますな〜
どれそろそろ帰ろう。今日もシニアグラス着用時間が長い勤務だった〜 中学生が嬉しい知らせ持ってきてくれたのが、とっても嬉しかった。感謝感謝です。
2012.03.09
4日のつるし雛。今日はリクエストにお応えして、放射線空間線量を測定します。目に見えない、臭いもしないもの。不安と安心の間の、どの辺に位置するか、数値がほっとさせてくれたり、ホットで驚愕したり。…こういう暮らしがずっと(私たちみんな亡くなってからも)続くと思うと「まだ1年」と感じます。
リクエストあって宮城県大崎市古川駅東で、放射線空間線量測定。RADEX1503で、1m5分測定。0.12マイクロsvと0.18マイクロsvでした。不安拭うの難しいです。
「あの日を忘れない」って、あちこちで見ます。けれども「あの日を忘れたい」という思いを持つ人もいること、ちょっとだけ気に留めてほしいです。
復興のため。 復興というもののために、
君は生きるの。 君は捨てるの。
全員が生きること。
老いて、 偲ばれつつ、
かつてを語り、 感謝述べ、
あれこれを託し、
君は老いてまっとうしよう。
復興のために、 捨てることはない。
将来の夢を、 奮いたたせる今。
今日、ある卒業生が漢字検定の合格をわざわざ報告に来てくれました。合格したことにも、来てくれたことにも感動感謝でした。K!ありがとうね。そして、おめでとう。君の努力の証だよ。
FacebookやTwitterを経由して、かつて小学生だった青年たちから連絡が届きます。今日もO! ありがとう!
2012.03.10
今日の東松島・仮設住宅。
今日は、石巻で会議、東松島で学習支援。「たちあがれ」とか「頑張れ」とか「まけるな」とか、そんな言葉に、きっと悪意ないんだろうけど、(何様ですか?)という感覚が湧く、まだまだ一年目。
去年の今頃まで、学校現場全般に「何かあってはいけないから」という、過剰な「安全確保」体制がありました。それが3.11から変わりました。放射能に対する緩さです。そこで気付くのは、「何かあってはいけないから」は誰に対するものだったかということです。子どもに? 責任者に?
津波災害と放射線被曝とは別。地震なくても津波なくても、放射線被曝事件は起こり得ます。500年前に津波災害はあったかもしれませんが、500年前に原発放射能拡散はありませんでした。津波の事実は誰から見ても明らかですが、あなたの横にプルトニウムがあるかどうかは、すぐには分かりません。
先日2011.3.11の新聞がでてきた。何食わぬ顔で。ああ、あの金曜の朝、私は何食わぬ顔で朝刊を読み、年度末の学校に出勤したのだった。「そのとき」まで、全部全部何食わぬ顔だったのだ。
先日描いた障子紙幟は、結構な迫力になってしまい、全く可愛くありません。猫でも描いて「おやすみ原発」って文字入れようと思ったけれど、テレビ見て寝ちゃった昨晩。やむなく迫力のまま3.11郡山に持って行きましょう。デモのときだけだから、そのとき雨降っていたら、またの機会ですな。
人を見下す付けなくてもいい捨てゼリフ。伝える言葉でも届ける気持ちでもなく吐き出されているもの。ぶつけるつぶてならまだしも、こっそり切り裂き去って行く光景が浮かびます。自ら命を絶ってしまう人が減らないのは、私たちが築いてしまっている世知辛さ。悪口やめよう…せめて控えて…自殺0を目指すためには、 今何をすべきか。 何をやめるべきか。
2012.03.11
原発いらない!3.11福島県民大集会。郡山に来ました。風邪ひきなので、厚着。暑い。公園には放射線測定器が設置されていて、それが日常であるのでした。そして、実際あってはならないような数値で立っているのでした。今日は、原発いらない3.11福島県民大集会。黙祷後の飯舘の農家の方のスピーチが、とても素晴らしかったです。地に足がついている言葉。強く優しく響きました。2013年の3.11は、月曜日。震災・原発事故を風化させないために、いっそ休日にするという話は、ないでしょうか。開成山野球場は満席。外野席開放するけれど、除染終わっていないとのアナウンスがありました。行ってみました。Radex1503で5分間1m計測。1.25マイクロsv。加藤登紀子さんの歌聴きながら、時計見ました。5時間目。去年の今日の今頃、3年教室に居て、図工作品の持ち帰り整えて、床磨きをみんなでしました。バタバタとテスト返したりもしました。あのときは、こんなことになるなんて思ってもいませんでした。
1分間黙祷して、あのときの揺れ(揺さぶり)はとてもとても長かったことを再認識しました。ほら、まだ揺れつづけていたんだよ。黙祷の3倍の時間。
僕は、障子紙幟を立てて、デモしました。宮城県からの参加者の多くは短いルート。僕は長いルートを選んだので、知らない地域から来た皆さんに混ざって歩きました。雨が本降りにならなかったのが幸いでした。
郡山デモの帰り道、去年のことをたくさん思い出しました。だんだん暗くなりそして真っ暗な夜を迎えた昨年。余震続き、連れ合いの無事を祈っていたあの夜。ギター爪弾きましたなぁ。真っ暗だとできること限られますから。「いかれたbaby」歌いましたなぁ、繰り返し繰り返し。夜中に外に出たら、凄い星たち。忘れません。
2012.03.12
大江健三郎さん。朝だ。太陽の存在を、とても大きく感じた去年の3.12。眠ったかどうかの自覚もないような夜を過ごし、明るくなって「本当のことだった」と気付いた朝だった。あの朝の続きを、私たちは生き続けている。
今になって、今朝見た夢を思い出しました。こりゃ珍しいこと。田中好子さんたちとテーブルを囲んでいる。地下のバーの雰囲気。テーブルには新聞紙が敷かれて、みんなで水をのむ。底が厚い美しいグラス。とても美味しい水だった。という夢。
かつて小学1年生を担任した子たちが卒業。写真をまとめて送らなくては!と思いつつ、見るだけで胸いっぱい。時間切れ。筆ペン祝詞を明日には送ろうと思っています。ああ、愛しい彼ら、きっと素敵に成長していることでしょう。
卒業式に向けての1週間の始まり。6年生にとっては終わり(さようなら)の始まり。教職員にとっては、超師走。風邪引いていられないけど、体調崩しがち。ま、毎年のこと。
2012.03.13
今日焼いたクッキー。3/13の朝。まだ学校の屋上で凍えていた人がたくさんいた13日。「ご無事でしたか」と挨拶し合い、ご家族の安否を尋ねるのが辛かった。そのまま「3.11以降」が続いている。
ブロック崩し。インベーダーゲーム。無味乾燥、無表情。狭い世界。悪意ないまま、私が崩されていく。痛みなくけれど、恐怖と寂しさ、つのる。という夢で目を覚ました。
何が危険で何が安全か。大人には所属組織の「上司」に判断委ねる傾向があります。自分の感じ方が上司と異なると自分の感じ方を疑ったり疑うふりをしがち。そうすることが所属する自分にとって最も難が無いから。子どもはそんな大人を見て学びます。
瓦礫受け入れ論議より前に、原子力発電所廃炉決定が先。今日また事故が起こる可能性がこの列島にはある。使用済み核燃料があちこちで熱い。ふるさとを奪われるのは、もう繰り返さない。
幸せに群がると それは消えてしまう。 全員で生きていくということ。
2012.03.16
卒業記念の植樹。今日は、卒業式。頼もしくなったねぇ。立派だねぇ。学級担任ではなかったけれど、算数と理科と図工と一緒に学習できて、嬉しかったです。毎年卒業式では、この1年を振り返るのですが、2011年度は特別。とてもとても大変でしたねぇ。頼もしいみんなに感謝です。感動をありがとう。また会いましょう!
吉本隆明さんが、亡くなった。私の少年期に重い影響響かせていた吉本隆明さん。理解者でも崇拝者でもファンでもないが、彼は特別な存在であり続けた。私の40歳年上とは知らなかった。去年だったろうか、朝日新聞にレーニンのこと。共感した。現代詩、よく読んだ。また一つ時代が変わる。
私のモニター。放射能拡散に反対する意見多数。それは、私がそう発言する人たちの発言をモニターに表示するようにしているから。全ての人のモニターは、本人の知りたいことを表示しているのであって、それは「世界」「一般」ではない。それは「みんな」ではない。リアルな声にすること。
「安全な原子力発電」というところで、 既に無理・矛盾が生じていること。 政治家は、気付くべきです。 私たちは、気付かせるべきです。「安全な原子力」あり得ない。「安全な原子力」が認められたとか「テストに合格した」とか言う人がいるなら、福島に行くべき。どこにあるか、温度は何度か、分からないままの核燃料をぴたっと「安全」にしてほしい。制御できないのに「安全」と言うのは、そうしたいという希望に過ぎない。
寝台特急「日本海」がラストラン。夕張北高の修学旅行は、「日本海」で京都入りでした。早朝目覚めて、車窓に琵琶湖見て、感動したのも、30年前のこと。年を重ねれば重ねるほど、思い出すだけで泣けてくるってこと、増えていく。これもまた豊かさと言えなくもない。ああ豊かさとは、のっぺりしていない。幸せは、単色ではない。
2012.03.17
東松島・仮設住宅集会所での学習支援。今朝北海道の若者(tiger)を仙台空港に迎えに行きます。目に見えるもの、見えないもの。感じてほしいです。瓦礫の向こう側。
tigerと仙台空港周辺を見てから、亘理に向かいました。tigerの通った札幌の中学校では亘理の中学校に手紙を送ったとのこと。どんなところか見たいという話から。雨の中、浜を走り、浜吉田に行きました。ぐるっと回って亘理。野球部だったtigerは、野球練習に食い入りました。「もう練習できるんだぁ」とは雪深い北海道の青年のセリフですね。
亘理から多賀城へ。そして松島。お目当てだった牛タン屋さんに入りました。おいしいものをおいしそうに食べている姿は、こちらも幸せになる感じです。
松島から東松島・野蒜。元々の風景が分からないと津波の被害が分からないと行っていたtigerでしたが、さすがにこれは!と絶句していました。月浜にも行きました。大好きな月浜。
東松島の仮設住宅集会所での学習支援に、tigerも一緒に行きました。小さい3年生と中ぐらいの3年生と大きな3年生と一緒に国語の学習をしました。小さな...って小学生ってことですね。というわけで、中学生、大学生と一緒なのでした。みんなで学ぶから楽しかったね。
松山町の家に到着した後、古川で沖縄そばを食べて、鳴子温泉へ。滝の湯は久しぶりでしたな。温泉神社に車を止めて、階段を下りようとしたら、それはそれは雪の坂道! まるで夕張のハイカラ坂のようでした。滝の湯に満足したtigerでしたが、中山平のしんとろの湯もはしごしました。ちょいと欲張った1日目でした。
2012.03.18
今日の大川小学校。北海道の若者(tiger)と被災地を巡る2日目です。朝はゆっくりでした。僕は「バイクのおじさん」なので、「乗ってみるかい?」と聞いたところ、二つ返事! 駅まで往復タンデムでした。またいで記念写真。足が届くんだもんねぇ〜
今日は、車で沿岸部を北上します。石巻の日和山に上がり、そこから女川へ。女川では「復幸祭」をしていて、しばらく楽しみました。無料のサンマも食べました。ある小学生ファミリーにも会えて、嬉しかったです。
女川から雄勝へ。そして大川小学校。車を下りて、校庭に足を入れたのは、初めてでした。悔しい気持ちで、涙が出た。どうしようもない、このあふれるものは、ここで家族を失った人なら、いくばかりか。いや、それは大川小学校に限ったことではない。思いを巡らせました。志津川まで行きました。
三本木・かおりの湯に行きました。久しぶりでした。帰宅して、tigerとご飯を食べました。
2012.03.20
18日のtigerとバイク。北海道の若者(tiger)がフェリーで帰る日です。僕は、仙台で「stop女川原発! 」の集会・デモ。ジャンベと障子紙幟をトラに載せて仙台です。仙台観光をして、夜のフェリーに乗るtigerも、トラで仙台へ。駅前で、別れました。今日もよい旅を! 握手しました。でかい手だ。
錦町公園に行きました。たくさん人が集まりました。僕は、ドラム隊。サンバのリズムに合わせられるかなぁ〜と若干の不安ありつつも、楽しみました。久しぶりに会う方もいっぱいいて、嬉しかったな。3/25の「さようなら原発inいしのまき」のちらしまきもしました。
集会の撤収作業の後、ひょっとすると会えるかもしれないなぁと、仙台駅前のフェリー埠頭行きバス停へ。あらまぁ、tiger。どうする? 車に乗っていく? 車で埠頭へ。久しぶりの仙台新港のフェリーターミナル。ああ、いいなぁ船旅。乗船するのを見送りました。どんな経験からも人は学ぶことができる。たくさんのことを学ぶ旅は、ずっとずっと続く。またおいでtiger。
僕は子どもの頃から、一人旅をしてきました。旅を続けて、大人になりました。いろんなおうちにお世話になりました。たくさんの出会いがありました。いつも訪れる側でしたが、今回は迎える側。利尻のおじさんはこんなことも思ったかもしれない...とか、もう尋ねることができなくなってしまったいろんな質問。たくさん心の中に満ちました。迎える側になるという、新しい旅。tiger、ありがとう。
2012.03.21
18日女川取材。あれこれ仕事に包囲されている春です。いつものこととも言えますが、原発関連はいわゆる喫緊です。3/25の「さようなら原発inいしのまき」を成功させるための仕事をこつこつ進める夜です。
日記見て気付いたこと。昨日(2011.3.20)が「お風呂記念日」ということ。あれから1年とは、11日に限ったことではありませんね。
はじめ人間ギャートルズ好きです。「主義」に分類されることが嫌なのですが、アナーキストですねと問われれば「そうですよ」と答えるでしょう。「原始共産主義」にも共感します。そんな私は「原子力」より「原始力」。森や海が、放射能汚染されていることが、とても悔しいです。人間たちめ!
「とっても新しい」が、 まるで優れているようで、 「とっても古い」が、 まるで劣っているかのような、 そんな感覚とは、 どんな環境で培われたものか。
2012.03.23
18日の女川復幸祭。今日は、修了式の日。午後に人事異動の校内発表。パタン!と、一枚目のドミノが倒されて、一気にやってくる来年度。自転車操業が、F1モードで、景色が後ろに飛んでいく。毎年のことながら、落ち着かない。体調壊しがち。どんな職業でも、きっと同じなんでしょうね〜。
人殺しはいけない、憎しみ合うことやめられるよう理解し合おう…と言うこと、行動すること。それが「戦争に反対する」ってこと。みんなが戦争に反対することを快く思わない支配する人々は、「戦争反対」と言う人を異端視し排除し、無いものとしようとする。「原発反対」も同様かもしれない。
おおい町で放射能が拡散されるあらゆるケースを政府・電力会社は、どのくらい考えているんでしょうか。「想定」って、どのくらいまででしょう。女川原発(宮城県)にほど近い町で暮らす私は、あらゆる想定しています。余計な想定しなくちゃいけない日々を未来に継ぎたいないです。
夜中の麺は、健康を害する...と分かっちゃいるけど、やめられない。っていうか、ずっと控えていた。忙しいと、その緊張感が緩む、だらしなくなる。ああ、ダメじゃん!とお腹に語っても、お腹は何とも言わない。今夜は、この焼きそば容器が理科の実験用に使えるんだよなぁと、気を紛らわす。
緊張するのは、よい。 緊張させられるのは、嫌。 歩くのは、よい。好き。 歩かされるのは、嫌。 ...こんな調子で、 ああずいぶんと年を重ねた。 角は取れたかもしれないが、 突っ張らなくても大丈夫という、 自信と誇りは、 歪にも揺るぎない、ますます。
もうだめ、寝ようと電気を消した。外が明るい。カーテンの向こうは、雪明り。どうりで静かなわけだ。明朝は、教職員異動新聞の春。でも、まだまだ雪明り。
2012.03.24
今日の松山町駅。今日は、仙台で「放射線被曝から子どもを守る会」の教職員部会の日です。今回も参加者はうんと多くはありませんが、初めて参加する方がいて嬉しかったです。心配事を体の外に出すこと。その受け皿を互いに用意し合うこと。支え合うという動作は、もともと人間に備わっているもの。衰えさせることのないよう忘れないよう、ときどきは動作させるものですな。
いちばん暗いところに、
少しずつ灯りを持ち寄って
重い荷物、独り占めしない。
おいしいものを分け合って
少しずつ口の中溶けていく。
それぞれの小さな勇気
まちがってない。
今日も雪が降る。
そして春は来る。
やがて日は沈み
必ず朝が訪れる。
「さようなら原発inいしのまき」の当日パンフレットを仙台市市民活動サポートセンターで印刷しました。A3を2枚。2つ折りで8ページ。200部でよいとの話でしたが、270部用意しました。
宮城県教職員異動の新聞発表。「主幹教諭」職が増えていることが気になります。
facebookを始めたのは、放射線空間線量測定器関連でのこと。Twitterを始めたのは、何がきっかけだったか。思い出せないのな〜
除染の限界を、冷静に明らかにするべき。 「うつくしま☆ふくしまin京都」で聴いた、「子ども福島」の方のお話を、 もう一度聴きたい。 確かめたいと思っています。
2012.03.25
今日の石巻・午前の部。今日は、「さようなら原発inいしのまき」の日です。僕はスタッフなので朝から会場入りです。写真動画記録係ですが、会場作りなど全部に携わります。ライブコーナーの壁が寂しく、トラに載せていた布などを活用しました。障子紙幟も出しました。託児関係もサポートしましょう。さあどのくらいの参加があるかな?
たーくさんの参加! 300人を超えたと思います。東京から来られた仲間もいて感動でした。多めパンフレットもなくなりました。いつもの仲間、新しい仲間と、語らいました。つなぐ実感湧きます。出会いに感謝だなぁ! 女川原発隣接の石巻で、こんなに大きな集いを持つことができるとは! 隣接ゆえに難しかったのはかつてのこと。むしろ隣接ゆえに、危機意識も大きくなるものです。午後の講演会は、後藤政志さんと振津かつみさんの講演でした。虹波さんの帽子を買いました。昔からずっと被っていた気がするような帽子。僕の頭の上に乗るために編まれたようなぴったり感。
片付けをして、交流会にも参加しました。ワカメ漁師の皆さんとお話できたこと、嬉しかったです。バンドの皆さんとおしゃべり楽しかった! 主催の中心人物Kさんのご苦労とお人柄を感じましたねぇ。ウーロン茶で最後までお付き合いして、ほくほくした気持ちでトラで帰ったのでした。
2012.03.30
仙台のお屋敷。映画「田中さんはラジオ体操をしない」「“私”を生きる」を見てきました。仙台・桜井薬局セントラルホールでの上映でした。自主上映も考えたほうがよいかなと思っているところです。白萩に行って、カレーを買いました。さあ来週から「新年度」ですね。
心臓は、ひとつ。
思いは、いくつ。
うつろう日々だ。
季節は巡るけど、
前の春と今の春。
ささやく風の言葉
香しい雲のため息
思いの丈単位なく
委ねるのはとき。
我が道なんか、
その一歩が決める。
明日なんか、
眠って朝が来れば、
明日だ。
大阪の教員採用試験合格者の採用辞退者が例年より多いとの情報。「君が代」を歌う人にとっても、あれこれ強制したり処分する行政のもとでは安心して仕事できません。「抵抗する人」を排除する目的で条例を作ったのかもしれませんが、大阪の学校を不幸せにしているのですね。
2012.03.31
アナログ最後。さあ、今日はテレビに注目しますよ。なんてったって、被災地宮城県。なんてったって、アナログ放送。最後の瞬間って、最も後の瞬く間。ただそれだけなんですけどね。
宮城県でもアナログ放送、終わりました。テレビは無くていいけれど、新聞はあったほうがいいな。デジタル新聞の配信で「アナログ新聞」なくなりますとかってことになったら、きっと「アナログ新聞」作るだろうな、私。
夕方、東松島の仮設住宅集会所への学習支援。チューリップが少し咲き始めていました。春です。
警戒区域解除のニュース。想像する。初めは温かく迎えてもらったものの段々居辛くなった親しい人の家・避難先。居るも去るも辛い。しかし、出て行くことを期待される空気。たくさん傷ついた1年。元々の「絆」を危うくさせられた。「収束」などと語った人は、私たちの代表では決してない。瓦礫を全国が受け入れることが東北被災地の復興だ、自分のことだけを考えるな。そう言う大臣を見ながら思う。働く場を作ってくれ。生き甲斐を返してくれ。瓦礫が積み上げられるふるさとは、辛い。けれどもそれらがなくなって、さあどうなるのか。廃炉宣言が先。同じ惨事はたくさんだ。
よく耳にする言葉
「絆」は、
きっと我慢ではない。
きっと希望だ。
たくさんの豊かな声。
それらが、ひとつになるのは、
ときとして、恐怖の始まり。
だから、確かめよう。
「絆」は我慢ではない。
多様なる個人の 手と手を取りあう希望だ。
若い頃ツッパって尖っていなくちゃ負けって思ってました。でも歳を重ね経験深めわかってきたことがあります。大きな声よりも伝わる言葉。ツッパるだけならそれだけ。発するだけではなく届けること。一人でできることには限りがある。自分に過信しないこと。まずは人と出会うこと。信じること。